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メラネシアの神話伝説

目次

  1. 陸地の起源
  2. 海はどうして出来たか(その一)
  3. 海はどうして出来たか(その二)
  4. 洪水神話(その一)
  5. 洪水神話(その二)
  6. 日月神話
  7. 脚小僧
  8. 夜の由来(その一)
  9. 夜の由来(その二)
  10. 人類の起源(その一)
  11. 人類の起源(その二)
  12. 人類の起源(その三)
  13. 人類の起源(その四)
  14. 人類の起源(その五)
  15. 人類の起源(その六)
  16. 火の起源(その一)
  17. 火の起源(その二)
  18. 火の起源(その三)
  19. 死の起源
  20. 人肉食い
  21. 魚の作り損じ
  22. 鳥の糞の化粧
  23. 火除け穴
  24. カットの船つくり
  25. 二匹の鰐
  26. ウミガメに甲羅が出来た由来
  27. 天国を去った人
  28. 善人ダベダベ
  29. 踊り好きのお婆さん
  30. 森の子供
  31. 物いうバナナ
  32. 腹の中の首飾り
  33. 子蛇の働き
  34. 賢い鶺鴒
  35. 魚嫌い
  36. マヌバダの花嫁
  37. 大鷲退治
  38. 鶴の手柄
  39. 死人の歌
  40. 妖精の王様
  41. 若い雄鶏
  42. 冥土のお嫁
  43. 人食いダコダコ
  44. 魔法の扁桃
  45. 火食鳥
  46. 首の抜ける男
  47. 黒鸚鵡
  48. 二十日鼠と蝶
  49. 運の強い人
  50. 七面鳥になった子供
  51. 魔法の枕
  52. 不幸な人
  53. 蛇児
  54. 蟻の豚狩
  55. 猪殺し
  56. 喉の開いた男
  57. 赤い葉の樹
  58. 草の家と泥の家
  59. 命の償い
  60. 手足のない男
  61. 火食鳥の飛べぬ理由
  62. 子持木の実
  63. 禁断の木の実

神名・人物リスト

名称出現箇所説明
ト・カビナナ(To Kabinana)1,12,13,15,21,22大陸を吊り上げる兄弟の一人
ト・カルブブ(To Karuvuvu)1,12,13,15,21,22大陸を吊り上げる兄弟の一人
ケミア3初めて飛び魚を食べた老婆。
ラバラタ族3アウラナ族と共同で海の入った木を切り倒したが、ほとんどアウラナ族が行って、最後にその手柄を奪った。
アウラナ族3アウラナ人たちはクボクボエ、プアプアガという海人となった。
ラウダロ4タウアガ山に住んでいた蛇の王様。海の番をするためクララの崖の珊瑚礁の洞穴に移動した。海を舐めると水が退く。また、呪文で海を鎮めることができる。
チチコ4ラウダロの家来
ヅボ4ラウダロの家来
アナウリ4ラウダロの家来
アバイア5,35洪水を引き起こした大鰻。魔法を使う。大雨を降らしてガビ人たちを溺死させた。
ズズゲラ7魚と女から生まれた。女は足が膨れてズズゲラを産んだ。のちに太陽となる。
カット(Qat)8,9,10人間や豚や樹や岩を作ったとされる。のちにイ・コングという「夜」に夜を分けてもらい、自分の国にも夜が現れるようにした。
イ・コング8トレス群島のヴァヴァに住む「夜」
マラワ10カットが人間を作ったのを羨ましがり、自分も人間を作るが、穴を掘って人間を埋めてしまい、人間が死ぬようにした悪霊。
タカロ11人間を作った者。造ったのは男だけだったが、そのうち一人に果物を投げて女に変えた。その女が夫と呼んだ男が最初の人間となった。
ヒ・アサ14自分の血を貽貝のからに入れて蓋をしたその中で卵が二つできそれから生まれた人間が人類の祖先とされる。
ゴガ16自分の体に火を持っている老婆。若者にその火を盗まれる。また、魔法で雨を降らすこともできる。
ウリムガウ17娘が蛇の嫁となり、その息子が蛇のお腹から火を取り出した。
エマコング18河底の家から自分と同じ名前の人に火やその他の物を授けられた。
メラグブト22,23タガロに騙されて鳥の糞を顔に塗る。愚かな男
タガロ22,23メラグブトをだました。賢い男
ロ・レイ24カットの妻
ウェブブ25笛を作ってナガリのように女たちを引き寄せる
ナガリ25う、う、う、うという声で鳴き女たちを引き寄せる
ビナマ26大角鳥。海亀とカンガルーが荒らした畑の持ち主。
ダベダベ28豚の6番目の末子で、一人だけ人間の男の子だった。お母さん豚を飼主に食われて、その骨を持って、旅に出る。食人を食い止め豚を代わりに食わせた。
ガラワダ30養母と無花果を取りに行って、自分だけおいしそうな果実を取り、養母には青いのを与えた結果、養母の魔法で樹の間に挟まれた。その子供が森の子供として、人々の中に打ち解けようとし、叔父によって助け出される。しかしその後グワゴダという蟹なり人の前から姿を消した。
グワゴダ30ガラワダが姿を変えた蟹。砂の中に穴を掘って棲む。
カクカク32タウレボガとレコタの兄妹。
タウレボガ32カクカクとレコタの兄妹。
レコタ32タウレボガとカクカクの妹。
ワケケ33蛇の中で一番小さい。アレボを倒す
アレボ33海の王様。檳榔子と胡椒の葉、それから珊瑚の粉を食べる。瓢箪とセメント匙を持っている。
モタバワ33ワケケをかばってくれる大蛇。
マタメラ33アレボがワケケに倒されたことを知って、怒った大魚。
トダ33人声鳥。ワケケを助けるため魚どもに向かって人の声を放った。
ラディアディ33飛び魚。トダの声が本当の人の声か確かめるために飛んだ。
ガビ人35魚が嫌いな人達
マヌバダ36,37島に残された乙女と結婚した鷲。
コトタベ37父をマヌバダに殺された子供。マヌバダを退治する
ケロケロ37父をマヌバダに殺された子供。マヌバダを退治する
ウアパニパニ38姉妹を魔法使いの老人から救った鶴。お礼に椰子の殻でできた盃を貰う。
タウケロボ39ワミラ村でトロアを歌うことができるただ一人の人。
ココレレコ41ディリウナの鳥の王様。乙女につかまる。
ビナマ41犀鳥、ディリウナに住む。
クスクス42冥土に住むという獣。
ダコダコ43人肉の好きな人。クァマナ族と戦って敵の肉を食べてそのおいしさに感動し石に変わった。
カピコア47黒鸚鵡の大首領。女に火を教えたとされる。
タウリボレナ49運の強い男、老婆と乙女の二人の妻がいる。
チア49タウリボレナを貫いた、鳥類で一番小さな鳥。
ボレヴイ57三人兄弟の母のお墓から生えた赤い葉の木の茂み。のちに乙女の姿となって、三人兄弟の世話をする。美しい乙女。
ワイズズ60手足のない人。アイダガギオギオを兄弟で退治してその手足がワイズズのものとなる。
アイダガギオギオ60ワイズズに手足を貸して椰子の実を取るように言った怪物。ワイズズの兄弟たちに殺される。
マンガルピス61火食鳥から食べ物を独り占めされてたため火食鳥を飛べないように騙した。小さい鳥
マングンディー62ただ一人の者。ビアーク島のソーピングに生まれた。マリスボンを明けの明星からもらい、乙女に投げる。そしてコノリが生まれた。マフォール島でよい掟を定めた。
コノリ62マリスボンによって生まれた。マフォールの人々がコノリが帰って来て、豊かな国を打ち立てると信じている。
イクワーン63最初の女をだました蛇。旧約聖書の蛇と同等の扱いで登場する。
コラノ・コノリ63ニューギニアのパプア人が一番尊い神とする神格。聖書の影響を受けて唯一神と同一視されている。
マフォール族63マフォール島の先住民。

物・地名など

名称出現箇所説明
地域・場所・自然
アドミラルティ群島1
ワミラ東モダウア地方3
タウアガ山4
クララの崖4
トレス群島のヴァヴァ8
ペウプア28
レボレボ28
ドウラ28
クァマナ地方28
ボウ地方28
コココ33ワケケ達が上陸した場所。
ワポギ35アバイアの住む池
ワミラ村
パプア島
マガバラ山地
ディリウナ41鳥たちの村、いまでは荒地となっている
荒地:「ヌマ・ププ」という。
ラモガラ村41ディリウナへ向かう途中に乙女と両親三人が寄った場所。
イオロア42冥土のこと。
イリワフオ島49タウリボレナが逃げて行った島
ムラワの森50七面鳥が住む森
ビアーク島62
ソーピング62ビアーク島のある地域
マヨコウォンディー62嘘つき島の一つ
マフォール島62マングンディーが様々な良い掟を定めた島。
メスラー62マフォールの北の都
スップカリンガー62カリンガの国、コロマンデルの沿岸地
物・道具・植物・動物など
マガマイア星27
デボロイア星27
カリワブ風27
ラバタラ風27
トロア39死の歌。
ドラカエナの枝37コトタベとケロケロの二人が自分の身を案じて母に渡した植物
ナツの木36海岸にある
ワオイ40食べるとおいしいという草。妖精の王様が横取りしようとする。
クミカ49果実を焼いて食べることができる。木
カラガニガニ55猪に一撃を与えた大槍
カラカテカテ55猪にとどめを与えた大槍
パンダヌスの木56
レイ58家の屋根の材料となる草
マリスボン62,63女に投げると身重となって子を産むという果実。とても珍しく、明けの明星がマングンディーに与えたもの。

陸地の起源

メラネシアには、陸地ができた理由を説明する神話がたくさんある。
アドミラルティ群島(Admiralty Islands)の土人の物語によると、大昔には、この世界には何もなく、茫々たる海原だけだった。その海に、一匹の大きな蛇が棲んでいた。あるとき蛇が「どこも水だけでは、絶えず泳ぎ回っていなくてはならない。少し体を休めるところが欲しい」と思って大きな声で「暗礁よ、浮かび出よ」と叫んだ。すると、海の底に隠れていた岩が水の面に浮かんで、乾いた陸地になった。

同じくアドミラルティ群島に存在する神話によると、世界の初めに、広がっている大海原の上に、一人の男と、一人の女が、一切れおの木にすがりついて漂っていた。二人はそれに飽きてきて、「いつになったら、乾いた陸地ができるのだろうか。それともいつまでも、陸地は現れないのだろうか。」と思っていると、とうとう水が退いて、陸地(何も生えていない丘をいただいた陸地)が現れてきた。二人は喜んで、樹を植えたり、食べ物になるものを植えたりした。

ニューブリテンの土人の神話によると、大昔、ト・カビナナ(To Kabinana)とト・カルブブ(To Karuvuvu)という二人の兄弟があって、ある日、海に魚を釣りに行くと、非常に重い物がかかった。きっと大きな獲物がかかったんだろう」と大騒ぎをして、引き上げてみると、それは一片の陸地であった。その陸地が次第に海の上に大きく拡がって、今日の大地となったのである。

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海はどうして出来たか(その一)

世界の初めには海はなかった。ただあるところに小さい穴があって、そこから少しずつ塩辛い水が湧き出るだけであった。一人のお婆さんがその穴を見つけ出して、塩水を使っては食べ物の味をつけていた。お婆さんは、穴の上に布切れをかぶせて、誰にも秘密にしていた。お婆さんの息子たちは、食べ物にいい味がついているのを不思議に思って、毎日のようにどこで塩水を手に入れてるのかを尋ねたが、おばあさんは決して教えてくれなかった。そこである日、息子たちは、おばあさんが家を出るのを見届けて、そっと後をついていった。おばあさんはいつもの通りに、布切れを除けて、穴から流れ出る塩水を汲み取った。それを見た息子たちは、あんなところから塩水が噴出していたのか、知らなかった。と言って、お婆さんが帰って行ったあとで、いたずらに穴を大きくしてみた。すると、たちまち塩水が凄まじい勢いで噴出してきました。息子たちは顔色を変えて一散に逃げ出した。塩水はどんどん流れ出て、四方に拡がった。こうして今日の海というものができたのであった。(ニューブリテン)

解釈

海ができた話である。聖書では下の水が一か所に集まり、地ができ、水のあるところを海と呼んだ、とあり、この話では人間ができた後に海が生まれたような感じである。他の神話も比較すべきであるが、これは下の水門と呼ばれるものと似ていると見受けられる。また、上の水門については北アメリカの神話Ⅰの8「洪水の話」で近いものが触れられている。すなわちこれに対応する水門がメラネシアにはあるということだろうか。そうすると、ノアの箱舟はあながちアジア太平洋地帯とも関連がないわけではないであろう。また、お婆さんは息子たちにその穴を隠していたということが、もう一つ、母が息子に隠している事柄と関連がある可能性である。この点では、北アメリカの神話Ⅰの7「種子の由来」において、教訓とされていることと別の何かを感じる。つまり手塩との関係性を見出すのである。この点では生きるのに必要なのは食物とその味であり、聖書の生きるのに必要な食べ物がマハルであること、と合わせて、子の生活に必要な栄養が、父母から来るという意味でそれは両親の愛による労苦であることがわかる。そして、子供にそれを知られてはいけないというのは、それが、性的な営みと原理的に似ているためで、子供が父母を裸にし得るという点で、危険である。

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海はどうして出来たか(その二)

昔は陸ばかりしかなかった。というのも、人々にはその海というものが、ワミラの東のモダウア地方に生えていた一本の木の中に閉じ込められていたのが、知られていなかったからであった。それがどうして見つけられたのか、その水が、どのようにしてその木から流れ出て、今日のあの青々とした大海原というものを作ったかについての話である。
昔ある男に、ケミアという妻があった。顔はゆるみ、腰は曲がりかけたお婆さんだったので、自分で自分の食べ物を食べるのも、ようやくという有様であった。まして、自分で自分の食料を取ってくるだけの元気は、薬にしたくもなく、家の留守ぐらいが関の山だった。それで、夫が野山を駆け回って二人前の食料を探してくるという有様であった。ある日のこといつものように狩をしていると、いつの間にか、大事な犬の姿が見えなくなったので、狩をやめてそれを探し始めた。見ると犬は、ある一本の木の下に白く光っているものを、主人も猟のことも忘れてしまったような顔をして、一生懸命に食べていた。男は、妙だと思い、「何を、そんなに夢中になって食べているのだ」と叫びながら、その傍に寄って行った。この男が不思議がるのももっともな話で、この白く光っているものこそ、その木の中に閉じ込められている海水のため、幹の穴から洗い出された飛び魚だったのである。毎日その幹の穴から洗い出されるものとみえ、古いのはもう腐って、あたりには嫌な臭いさえ漂っていた。けれども出たての新しいのになると、まだ飛び跳ねている様子であった。犬がうまそうに食べているのは、この出たての新しいのであった。怪訝な顔をした男は「おかしいぞ。その白く光っているのは、いったいなんだろう。いずれにしても、犬があれほど旨そうに食べているからには、定めしおいしいものに違いない。今日は獲物もないし、ちょうどいい幸いだ。ケミアもお腹を空かせていることだろう。小言を食わない先にこれでも持って行ってやろう」と独り腹の中に決めながら、新しそうなのを拾い集めて、それをもって帰ってきた。そしてその飛び魚を、妻の目の前に出して、「これは本当に不思議なごちそうだ。一つ毒味してはどうだ。お前も大概の歳だから、これを食って死んでもそう未練はあるまい」と、言った。ケミアは、腹の皮と背の皮とがくっつくほどに、お腹がすいていたので、ごちそうと聞くと、餓鬼のようになって、それを食べた。すると飛び魚の効き目が早速表れたのか、お嫁さんは、まるで死んだように、深い眠りについた。あくる朝になって、日が昇って昼頃になっても、まだ気持ちよさそうに眠っていた。子供たちが怪しんで、その体を揺すってみると、やっと永い眠りから覚めたお母さんは、まだ眠そうに目をこすりながら「こんなに気持ちよく眠ったことはない。なんというおいしいご馳走だったのだろう。あれはいったい何でしょうか」と夫に尋ねた。
このうわさがいつとはなしに、近所の人々の間に拡がった。それからというものはケミアは、再三飛び魚を食べましたが、別に毒にもならないようなので、近所の人々もまた食べてみた。一度味をしめると、もう止められないので、飛び魚を食べる人は、日ごとに増していくばかりであった。こうなると、毎日毎日木の表面に洗い出されてくるのだけでは、足らなくなったので、ある日、人々は寄り集まって、「皆さん、一思いにあの木を切り倒そうではないですか。そうすれば、あの美味しいご馳走もたくさん食べられますからね。」と相談した。
いよいよ、ラバラタ族とアウラナ族との、この二つの種族が共同してやることになり、おのおの石斧や、たくさんな食物などを用意して出かけた。まず、アウラナ人たちから立ち上がって、石斧を振るい始めた。その間ラバラタ人たちは、アウラナ人たちが疲れて休むとすぐに食事ができるように、その用意をしていた。こうして幹に刈り込む斧の音や人々の掛け声が、森の中に響いている中に、木の幹も大分深くまで、伐れ込んだので、疲れたアウラナ人たちは、休んで食事を始めた。その油断を見澄ましたラバラタ人たちは、そっと立ち上がって、もうわずかばかりで倒れるばかりになっている木を、たたきつけた。天地も崩れるばかりの大音響を立てて倒れ、同時に凄まじい音を立てながら恐ろしい勢いで水が迸り出て、それは地を払い草をなぎ倒し、大木を根こそぎにし、畑や丘を覆い、瞬く間に目の届く限りは、一面の水源となった。そればかりでなくこの大水源には、いろいろな魚が右往左往している。この大水源を今では海と言っているのである。
さて、話は前に戻って、あいにく木は、食事に夢中になっていたアウラナ人たちの頭上に、落ちかかってきたため、あっという間もなく、沖合に流されていった。こうしてアウラナ人たちは、クボクボエ、プアプアガという海人となって、今でも水中を浮遊する飛び魚の卵の間に住んでいる。そして、飛び魚の卵取りに沖合に乗り出してきた人が、疲れのあまり丸太船の上で、いい気持で寝ていたら、クボクボエはそっと浮き出ては、海中へ引きずりこんで殺してしまうような悪いことばかりしている。また、夜の暗黒の海上遥かに点々と輝く光を見ることがあるでしょうが、それはその海人の火なのである。あるいはまた死んだように沈み渡った静かな夜の空気を破って、ひそひそと誰か話しているような音を、お聞きになったことがあるでしょうが、それは海人たちの話し合っている声なのです。
木が倒れた時迸り出た水は、気持ち悪いほどの血の色をしていた。ラバラタ人たちはこの色を見て、気持ちが悪くてたまらないので、黒檀の木を切り倒して、それを削った鉋屑(かんなくず)をやまのように積み上げた。そしてそれに水を注ぎかけると、めいめいにそれをつかんで、奔流の中へと投げ込んだ。すると、あれほど真っ赤だった水は、突然黒色に変わった。それから別な木を倒して同じようにすると、今度は真っ青になったばかりでなく、それには、今日でもそうであるように塩辛い味が付いた。これを見て人々は「これでよい」と言った。
さて、話はまた前に戻りますが、水が滝のように流れ出てきたときに、それと一緒に飛び出てきたたくさんの魚も、沖へと流された。けれども飛び魚だけは、素早く海辺の沼地に取りすがって、そこに隠れていたので、女たちは毎日毎日それを取って食べていた。こうしておいしい魚を腹いっぱい食べることができるので、畑に働きに行くものなどは一人もいなかった。どこも畑には雑草が茂り、まるで藪のようであった。このままでは、肝心の穀物も枯れてしまうのですが、そんなことはとっくの昔に忘れてしまったもののように、毎日毎日魚捕りばかりに詰めかけた。海辺の沼地は小鳥が歌いだしてから、太陽が彼方に沈んでしまうまで大賑わいだった。ある日、一人のお爺さんが、「いったいどうすれば女たちは魚とりをよして畑に働きに行くだろう。あの飛び魚さえこんな近いところにいないようにすればよいだろうか。他の人たちもみなそう思っているに違いない」とつぶやきながら、飛び魚が隠れている沼地へやってきて、さも人間にでも話すように、「お前たちの住処はここではない。ずっと海の沖である。しかも、お前たちは、お前たちの時節の他は不要だ。魚が食べられないと言って、腹を立てるような者にお前たちを食べさせるのは惜しいことだ。お前たちの時節が回ってきたら、その時こそ人々が食べられるように、みんなの網に一様に入ってもらいたい。時節のほかは決して海辺に近づいてはならない。朝になってお腹がすけば、人々は食べ物を探さなければならない。そのときお前たちさえいなければ、人々につらい目を見せて、そして畑に行って働かせることができるからだ」と言って聞かせると、珊瑚礁の石片をつかみ上げて、飛び魚めがけて投げつけた。これは敵わぬと思った飛び魚どもは、沖合遥かに逃げ延びた。試みに飛び魚の顔を見てみると、そこには珊瑚の形が残っているのに気づくでしょう。これは、老人が飛び魚たちを沖合遥かに追いやってしまうために、投げつけた珊瑚の跡なのです。(ニューギアナ)

解釈

海が木の幹の中にあったというのは不思議である。例えば、ロシアのスヴャトゴールは「大地の袋」を、ブラジルの「夜の起源」では「暗闇の袋」があり、どちらもいわゆるエントロピー無限となるような力が中に封じられているのであるが、海も同様に、しかし「木の幹」の中であるが、無限大の力が入っていたと思われる。ここで、飛び魚は珊瑚によって罰せられているが、これは飛び魚が超えてはならない一線を越えているためと考えられる。それは海と空をつなぐ場所、すなわち水平線ではないだろうか。そして、珊瑚が意味するのはこれも血石であり、カークランドであるので、つまり、水平線を超えることが、それに触れることと同義であると思われる。また、メラネシアでも女たちは非出来であり、また、最後に老人が嘆いているように、地を耕すことを人々の定めとしている節がある。これは創世記のはじめにあるように、神はまだ地を耕す人間を作っていなかった、という記述に見られる、「地を耕すもの」がメラネシア人にも当てはまるのかもしれない。また、年上の女をめとるという風習に関しては東南アジア特有の女の罪によるものと考えられる。すなわちそれは息子を食べるという風習にあり、これは双子が男を産もうとする点と、創世記でイブが「私は主によって男児を得た」という言葉によって引き起こされたのだろうという推測において、正当性を保証するものでもある。

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洪水神話(その一)

昔、大洪水が起こったことがあった。海の水が溢れて、地面は水野原となった。住民たちは、おびただしいほどおぼれ死んだが、海の水は高くなりついに丘までも水の下に隠れてしまった。妖精も小人も小人も、水の精も、蛇どもも、押し寄せて来る濁水に震えおののきながら、一番高いタウアガ山の頂上目指して、どんどん逃げ上って行ったが、海水はちょうどこれらの避難者の後でも追うようにして、タウアガ山の山側を伝ってだんだん昇ってきた。まもなく山も妖精も蛇も飲み込んでしまうのはもう間もないことだった。この目前に迫ってくる危険を見せつけられてみんな生きた心地もなく震えていたが、蛇の王様ラウダロだけは、タウアガ山頂に座ったまま平然として、大洪水などには見向きもしなかった。蛇どもをはじめ妖精、小人どもは、もう一生懸命になって、念仏を唱えていた。するといままで黙っていたラウダロも、口を開いて、家来たちに「水は今、どのあたりまで来ているのか」と尋ねた。家来たちは「水は次第に上がっています」と答えた。しかし王様は水などは、見ようともしなかった。しばらくして王様はまた「水は今、どのあたりまで来ているのか」と尋ねた。家来たちは前と同じように「王様、水はだんだんと上がっています」と答えた。すると、王様はまた「水は今、どのあたりまで来ているのか」と尋ねた。今度はチチコやヅボ、アナウリなどの面々をはじめとして、すべての蛇どもは口をそろえて、「王様、水はすぐそこにまいりました。王様の体に触れるのも時期でございます。」と答えた。
これを聞くと、いままで石のようにじっと座っていたラウダロは、水の方へ向くと、いきなり真っ赤な舌を出して、荒れ狂う水を舐めた。すると、あれほど恐ろしい勢いで上がってきた水は、はたと止まったと思うと、今度は次第に下がり始めた。けれどそれくらいで満足しない王様は、ときどきその長い舌を出して、水を追って山を下って行った。海の水が下がるに従って、岩が現れ、谷が現れ、それから野原が現れ、平地が現れ、ついに海水はまた元の海辺まで減退して、大洪水も治った。しかし、また山に帰ると、また大洪水が起こるかもしれないというので、王様は、クララの崖の珊瑚礁の洞穴の中に住み込んで今日までずっと海の番をして来た。そして海が荒れ立って人々が心配すると、ラウダロは、洞穴から出て海に向かい呪文を唱えた。そうすると、いままで荒れ狂っていた海は、死んだように静まり返ったということである。(ニューギアナ)

解釈

ラウダロと聞いてまず思い浮かぶのはバンボンロン、ブリトラ、であるが、蛇ときている。また海の水を制御する役割からも下の水門との関連も浮かぶが、エノク書69章に、「この誓いによって海は造られ・・・怒りの時に備えて、砂を置かれ、世界の創造の時から永久に、それを超えることはしない・・・永遠から永遠に至るまでその位置からずれることはない」とあり、「石の間に生きた火の舌」ともある。これがすなわちラウダロであると考えられる。この点はかなり考究の価値がある。また、ノアの洪水とも深く関連しているようである。まだ多くを見出せそうであるが、このあたりにしておきたい。

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洪水神話(その二)

ある時一人の男が湖を見つけた。その湖の底には魔法の力を具えた一匹の鰻が住んでいた。しかし、男はそんなこととは夢にも思わず、沢山の魚を捕えて家に帰った。その男は家に帰ると、すぐに村の人たちに、魚がたくさん捕れる素晴らしい湖を見つけたと話した。これを聞くと村の人たちはは大変に喜んで、明日そこに連れて行ってくれと頼んだ。
明くる日になると、村の人たちは我も我もと案内の男について湖の所に出掛けた。彼らは一生懸命になって魚を捕え、面白いほどたくさん捕れた。そのうちの一人の年取った女が、一匹の大きな鰻を捕えた。それこそ魔法に長けたアバイアという鰻だった。女は気味が悪くなって、アバイアを水に放ってやったが、アバイアの怒りは収まらなかった。「人間の奴、不届きな。私の手下の魚を勝手にどんどん捕まえるばかりか、私の体までつかみ上げた。」とアバイアは、その夜、魔法の力で大雨を降らせた。たちまち湖の水量が増して、陸地に溢れ出た。人々は思いもよらぬ洪水に驚いて、右往左往に逃げまどってとうとうみんな溺死してしまった。ただ鰻を逃がしてやった女だけが高い樹によじ登って、やっと命が助かった。(ニューギアナ)

解釈

アバイアという鰻。海には幾つかの第五の日の神格的な存在がいるようである。例えばペルーのビラコチャもその一人だと思われる。ウナギのアバイアとひとつ前の話で出たラウダロ、メラネシアの神話では水の神々が多く出ている。これらはタニームに関する者と考えられるが、ビラコチャに関しては第四の日以前を知っていると思われる。この点、第三の日との関係もとらえられる。そして、一番引っかかるのはこれらの神々とベトナムとの関係である。ベトナムではバンボンロンなどの龍神が現れるが、また、海の卵から生まれる巨人もいる。50個の卵と言うと海のニムフェを思い浮かべるが、このあたりの魚が人間となるという話も看過できない。無論鳥の卵から生まれた侏儒の話もあり、鳥と魚がなぜ人間となったのか、また、韓国の神話に言われる、熊が人間の女となった話、さらには、中国の女媧についてもであるが、人間の女が生まれた理由について、深い罪があり、罰と悔悟を求めるべきである。とそう思うのである。この件もおそらくは双子と関係がある。この生き残った女と言うのは、なぜ生き残ったのか。それは魚自体が女を擁護するかのような特別な感情をもっているからだろうか。

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日月神話

大昔、海の水が退いて、乾いた陸地が現れると、海原の上に漂っていた一人の男と一人の女が、陸に這い上がって、いろんな樹を植え付けたり、食べ物になるものを育てたりした。ある時、二人は二つの松茸をこしらえた。そして、男がその一つを空に投げ上げると、たちまちそれが月となった。女も負けてはいないで、もう一つ松茸を投げ上げた。すると、それが太陽になった。(アドミラルティ諸島)

ある時一人の男が大地に穴を掘っていた。深く掘って行くと、何やら円くて光る物を見つけた。男は不思議に思ってそれを拾い、「なんだろう。今まで見たこともないものだ。ぴかぴか光って、見事だ」と見惚れていると、丸い物は、やがて一人でに動き出した。そしてあっという間もなく男の手を離れて、高く空に飛びあがった。それが今日の月であった。
月は地の中でだんだんと大きくなっていった。だからもし男がもっと後で掘り出したなら、今日よりも一層大きく、強く光り輝くはずであった。(ニューギアナ)

大昔に一人の女がいて、瓶の中に月を隠していた。女は月の美しい光を一人で楽しんで、誰にも知らせないようにしていた。しかし、とうとう五、六人の少年がその秘密を見破ってしまった。少年たちは女が留守になった時を見計らって、そっとその家に忍び込んで瓶の口から蓋を取り除けた。途端に瓶の中から月が飛び出して来た。少年たちは慌てて月をつかんだ。
月は少年たち手から逃れようとしてもがいた。少年たちは逃がすまいとして懸命に握りしめた。しかし、とうとう月は、彼らの手から滑りぬけて、高い空に飛びあがってしまった。
これが月の始まりで、月の面に斑点があるのは、少年たちの手の指の跡なのである。(ニューギアナ)

解釈

メラネシアでは月に関する神話のほうが多いのか、初めの話以外に太陽は存在しない。しかし、この話でも月の後に太陽が生まれている点では、太陽に関する信憑性は低いかもしれない。しかし、月に属する場合には太陽自体が遅れて現れるように見えるのかもしれない。この点は特に創世記で夕べがあり夜明けがあるゆえに、しかし、第一の日にはエロヒームは活動しており、この故に夕べが先なのかもしれない。しかし、夕べと夜明けとは光ゆえであり、光があり、また闇が来るということである。しかし、第四の日についてはそうとは限らない。すなわち太陽が先に(実際には大きな天球)が上がり、月が上がっている(実際には小さい天球)。そして、太陽と月同様に大きいほうに昼を、小さいほうに夜を統治させたとある。この点でもひょっとすると矛盾があるかもしれない。と言うのは大きな天球は太陽ではなく、別の物で、太陽はそれを再び、すなわち第七の日に移されたものとして存在するのか、はたまたつくりかえられたのか。同様に小さい天体もである。ただし、直感的に書かれたものを見る限りでは大きい天体は太陽で、小さい天体は月である。ただ、現在の天体観測から察するような宇宙や太陽系の姿は当時そうではなかったかもしれないが。しかし、太陽と月に関しては諸説あり、場所によって異なるのは事実である。この点で、場所がその順序を変更しているということは十分にあり得るのであるが、これは視覚的な錯覚と同様に場所のトリックなのだろうか。遠くの物は小さく見え、近くの物は大きく見えるが、大きなものが遠くにある時、そこから移動してもその像の位置はさほどずれず、近くの物のほうがずれるのである。この点で近くの物は自分から離れているように見え、遠くのものはそう見えず、あたかも自分の見ている視界の内にあり、空間を規定しているように見える。しかし、同じ大きさの物が連続で自分から離れておかれているような場合にはそれらは直線的に遠くの点に集約しているように見えるのである。この作用を映したのがブラックホールかもしれないが、これと同様に大きなものは他の物を均等にその場所に有らしめる。その最たるものは太陽と月であると思う。しかし、地球の自転が太陽の出現をつかさどる点で、大きなものに対しては自分が動かざるを得ず。小さなものに対して自分は動かなくていいという根本原理が現在の太陽系を形成しているともとらえられるのであるが、ブラックホールも同様に人間の意識現象を映してそうなっていると考えられる。結論としては少々足りないが、我々の見ることができるのは我々が認知できる範囲であるということが知られ、またその通りに動くかのようにみられる物質界もそれ独自の働きがあり、我々の言うことを聞いてくれるとは限らない。ましては自らが動くとなれば、それほど多くのことは動いてくれないのであろう。自らが変わらないでいることがすなわち宇宙を動かす力として、統一的或者、多の一を動かす力として普遍的であると言わざるを得ない。しかし、その力も我々に権利があるのではなく、統一的或者の主体性から現れているのである。この点でイデオロギーを唱える者は不動で、その力によって人々を動かしているに過ぎない。

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脚小僧

ある時、一人の女が海辺にある自分の庭に立っていると、一匹の大きな魚が、さも楽しそうに戯れているのを見つけた。女は庭を出て海に入った。そして魚と一緒になって、長い間遊び戯れていた。魚は女のそばに泳ぎよってきては、体をその足にこすりつけるのであった。こんなことが幾日か続くと、女の足が大きく膨れ上がった。女は、膨れ上がった足が痛んでたまらないので、お父さんのところへ行って「お父さん、こんなに足が膨れ上がったんです。痛くてしょうがないから、切ってください」と言った。お父さんはすぐに小刀で膨れた脚を切り開いた。すると、中から一人の赤ん坊が転げ出た。女は赤ん坊にズズゲラと言う名をつけて、大切に育て上げた。ズズゲラは大きくなると、自分と同じくらいの男の子にうち混じって、毎日のように槍を投げて遊んでいた。ある日ズズゲラは、どう思ったのか、投げやりをつかむと、的には投げつけないで、子供たちを目掛けて投げつけた。子供たちは、大変腹を立てて、「何をするんだ。お前は女の足から生まれた卑しい奴だから、そんなくだらないことをするんだろう」とみんなで悪口を言った。母親はそれを聞くと、「このままにして置いたら、他の子供たちが、きっとズズゲラをひどい目に遭わせるだろう」と思って、とうとうズズゲラをその父である魚に返してやろうと決心した。祖いこでズズゲラを連れて、海辺に行くと、すぐに魚が現れ出てきた。魚は女から話を聞くと、「よし、お父さんがいいところに連れて行ってやる」と言った。ズズゲラは、母親と別れるとき、「お母さん、これからすぐに大きな岩のそばに行って、その陰に入っていらっしゃい。親戚の人たちと一緒にね」と言った。母親はその言葉を怪しんで、「どうして、そんなことをいうのです」と尋ねた。すると「だって、私はこれから高い樹に登って、天に行ってお日様となるんです。そして、私をいじめた者をみんな焼き殺してやるつもりなんですよ」とズズゲラが答えた。やがて魚がズズゲラを口にくわえて、東へ東へ泳いで行った。東の果てに来ると、ズズゲラは、高い樹を伝って天に昇った。そして太陽となって下界を照り付けたので、人々が、だんだんと焼死するようになった。ズズゲラの母親や親戚は無事でしたが、みんなが焼死をするのが、気の毒でたまらないので、ある日、母親は瓢(ふくべ)をもって、太陽の出る山の頂に登った。そして太陽が山影から顔を出した途端、さっと瓢を投げつけた。太陽は驚いて眼を閉じた。こうして太陽の熱が以前より弱くなったので、人間たちは焼死を免れた。(ニューギアナ)

解釈

女の足が膨れ上がると聞いて真っ先に思い浮かぶのはgrand pieである、つまりフランスのベルト姫のことである。さらには、北アメリカ「足から生まれた怪童」も似たような話である。しかし、ここでは、その息子は天に昇って太陽となっている。また、太陽神話では珍しく、魚の子であるという。この点で思うのは、太陽が一度水の中に沈んだ結果なのではないかということである。そして、太陽はいくつかの種別を持っているようである。(たしか中国の神話で太陽が8つとなる話があったはず。。。)そして、月と太陽は場合によって男であったり女であったりするようである。

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夜の由来(その一)

大昔、カットという神様が、人間や豚や樹や岩などを作った。その頃は昼だけで、夜というものはなかった。カットは夜を作ることができなかったのであった。カットの兄弟たちはカットに「昼ばかりいつまでも続いてはやりきれない。お前の力でなんとかならないか」と言った。
カットは困ってしまって、いろいろ考えているうちに、トレス群島(Torres Islands)のヴァヴァに、「夜」が住んでいるということを聞きつけた。そこでヴァヴァに渡ってみると、イ・コングと呼ばれた「夜」が住んでいて、そのために昼と夜がうまく分かれていた。カットはイ・コングに会って、夜を分けてもらって、それを自分の国に持って帰った。こうして初めて夜が現れるようになった。(バンクス群島)

解釈

この神は創造神としてあらわれているが、昼だけの国に住み、夜を持って帰ったとある。このカットが昼の使いである可能性がある。そして、夜と混じった根源として書かれている。このことはもしかしたら、第一の日、神が光を創造し、夕べがあり夜明けがあったことに起因しているのかもしれない。また、第二の日に大空を創造した理由として、光のほうが夜へと関与したのかもしれないという可能性が否めない。この点で、昼は夜を求めているのではないかと考えるのであるが、その理由はエロヒームがその唯一なる方を求めている、すなわちゼウスはその唯一なる方を求めているということだと思うのである。つまり光はエロヒーム自身の善性によって作られたが、これはその方を模して造られたのである。しかし、その方は知られることがなく、結果エロヒームの善性、すなわちエロヒームが唯一なる方から生まれたという証である力が生まれた。カットとイ・コングはそのために出会うことになったとすれば、この点については、自然な発展であるととらえてよいのかもしれない。すなわち、夕べがあり、夜明けがあるとは、夕べには光は闇と別れて行く。そして、光は真の神を求めて再び、闇へ現れる。このために、光のある場所は光によって働いた後、闇に帰るべきなのである。また、光が闇を求めたゆえに照らされた場所があり、そこにはすでに光があるので、闇ばかりではその力を失ってしまうゆえに光は再び現れなければならなかった。すなわち、照らした場所には光があるゆえに再び光を見出さねばならない。そして、光は闇を巡回しだしたゆえに、また、その光が徐々に広がってしまうゆえに、大空によって、すなわちエロヒームの霊によってその範囲を定めようとした。そして、光と闇があった故に、初めに光があった場所と光が去り照らされた場所のゆえに、上の水と下の水が分かれたのである。

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夜の由来(その二)

他の神話によると、カットは天に「夜」が住んでいるということを聞きこんで、夜を買い受けるために大空に登って行った。「夜」はカットの瞼を真っ黒に塗って、夜と眠りとがどんなものであるかを教えた。それから夜が去ると、曙が来ることを話して、曙を知らせる鳥を与えた。
天から帰って来たカットは、兄弟たちに言いつけて、ココナットの葉で、幾つかの寝床をこさえさせた。そしてその上に横たわっていると、大昔から始めて太陽が西に沈みかけた。兄弟たちは驚き恐れて、「カット、大変だ。太陽がどこかへ行ってしまうらしい」と叫んだ。カットは「そうだ、まもなく太陽が見えなくなるだろう。そして大地の上に何か変わったことが起こったら、それが夜の現れのしるしだよ」と答えて、天から持ってきた夜を放してやった。兄弟たちは「海の方からやってきて、空を覆いかけているのは何だろう」とまた叫んだ。「それが夜だ。じっとしているがいい。そしたら眼がなんとなく重くなってくるから」とカットが教えた。まもなくあたりが暗くなって、兄弟たちの眼がぼんやりしてきた。彼らがびっくりして、「カット、どうしたんだろう。私たちは死ぬのではないだろうか」と尋ねた。カットは「目をつぶりなさい。」と言った。やがて兄弟たちは生まれて始めて眠りについた。
夜が長く続いているうちに、天から持ってきた鳥(それは鶏[にわとり]だった)が鳴き始めた。カットは一片の黒曜石を取って、夜を切った。すると、今まで夜が覆いかぶせていた光が、四方に拡がり曙が現れた。カットの兄弟たちはたちまち目を覚ました。そしてあたりを見回しながら、目をこすった。(バンクス群島)

解釈

この話ではカットは天に「夜」が住んでいると聞いたそうだ。また、曙を知らせる鶏をもらっている。この点で前項の話よりも少し進んだ時代のことを言っているように思う。また、この話が実際には第七の日について、つまり、最初に起きたことが再び起こり、それは第七の日、エロヒームが眠ったことに起因しているように思うのである。カットは夜を切ったとあり、その時光が四方に拡がったとある。この四方がもし文字通りの4つの方向であれば、これは四季の始まりかもしれない。もしくは川の始まりかもしれない。闇が覆ったところはヒマラヤで、ヒマラヤはアイスランドの北までの高さだった。それは、もともと単なる闇だったように思われるが、鳥が鳴いたことによるのか、曙、つまりは「明けの明星」によって、闇は天と呼ばれる大空まで届いたようである。さらには、それは鶴と亀のような関係で、明けの明星はなぜ、生まれたのだろうか。一つ、ゾリャーというオーロラの女神がある。そして、マニトーとの関係がある。そして、カットが黒曜石で夜を切った理由が鶏が鳴いたためであり、この「夜」は「美しさ」と呼ばれるもの(シベリアの)かもしれない。もう一つ、ポリネシアのマウイについて「ヒネ・ヌイ・テ・ポ」との闘いではイワカワという小鳥が笑ったために、命を落としている。これは、この神話とも関係がありそうである。しかし、カットの居たであろう光のあった場所は下の水となり、夜のある場所は上の水となったような気がする。光が闇を求めることが問題であり、それゆえに下の水へ移り、海となった際には闇を求めるように海は波を立てているように思う。

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人類の起源(その一)

大昔、カットが人間を作ろうと思い立った。そこで樹を伐ってきて、それを刻んで、六つの人形を作った。三つは男の姿で、三つは女の姿であった。カットは、人形の前で踊りだした。しばらく踊っていると、人形が動き始め、カットは喜んで今度は太鼓を打ち鳴らした。すると、人形は起き上がって、立派な人間になった。カットは彼らを三組の夫婦にした。マラワという悪い霊がそれをみて羨ましがって「自分も人間を作ってやろう」といって、カットがした通りを真似て、幾つかの人形を作り上げた。そして、その前で踊ったり太鼓をたたいたりすると、人形が動き出した。すると、マラワは穴を掘って、七日間彼らを埋めておいた。それから掘り出してみると、みんな命がなくなっていた。こうしてカットによって始めて人間が作られ、そしてマラワの悪戯のために、人間は死なねばならなくなった。(バンクス群島)

解釈

樹を伐って造ったという点、そして三組の夫婦を作ったという点、また踊って、太鼓を鳴らした点、様々な神話との関連が伺われるが、シベリアのタンゲンの話よりも前に(もしくは同時?)起こった出来事のように思う。と言うのは、このマラワという悪霊とカットはおそらくシベリアのタンゲンと鴉になった創造神とは異なるように思うからだ。しかし、この両者の関係はおそらくカットとマラワの関係から引き継がれていると思う。マラワと言うのは光に照らされた闇が光を失うところの霊魂によって現れた存在なのかもしれない。そして、これは第三の日においても草と木の関係に現れており、草は十分な光と水がなかったのである。第三の日の問題に関してはシベリアの話が当てはまっているように感じるのである。

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人類の起源(その二)

大昔、タカロ(Takaro)という者が、土を練って、十個の人形を作った。そして、目と耳と口と手と足とに自分の息を吹きかけると、人形は生きて動くようになった。しかし、それはみんな男ばかりであった。タカロはそれに満足ができなかった。彼は男たちに向かって、「火を起こして、食べ物をこしらえるがいい」と言いつけた。男たちがその通りにすると、今度は「みんなそこに並んでじっとしているがいい」とタカロが言った。住人の男が立ち並ぶと、タカロは一つの果物をつかんで、そのうちの一人に投げつけた。すると、果実に打たれた一人の男は、たちまち女に変わってしまった。タカロは、その女を連れて、とある家の中に案内した。そして、「家の中に待っているがいい。今に男たちが、代わる代わる尋ねて来るから」と言って、男たちの所に引き返してきた。タカロは一人の男に、「女のところに行って、火をもらってくるがいい」と言った。その男が女のところに火をもらいに行くと、女は、「おお、兄さん、いらっしゃい」と言った。タカロはまた一人の男に「女のところへ行って、水をもらってくるがいい」と言った。その男が女のところに行くと、女は「おお、弟よ」と言った。タカロは、頭を振って、残っている男たちを順々に、女のところへやったが、女は彼らを見ると、伯父さんと言ったり、甥と言ったりして、どうしても夫とは言わなかった。タカロは気を苛立たせて、最後に残っている一人の男をやった。すると、女は喜びの声を上げて、「おお、わが夫よ、いらっしゃい」と言った。タカロはやっと安心して、「お前たち二人は夫婦になって、一緒に住むことにしなくてはならない」と言いつけた。これが人間の始まりです。(ニューヘブライズ)

解釈

タカロは人形で人間を作ったとある。十人造ったとあり、「自分の息を吹きかけた」(バイハベアパブニシュマットハイーム)とある。創世記2:4-9の記述はこのポリネシアの記述に似ている。また、果物はこの時にはあったのであろう。ここでは男に果実を投げて女に変えている。(しかし、男が女に変わっている点では、この女とは初めから女ではないということになる。一方イブについてはアダムのあばら骨から造られて初めから女である)そして、女は家の中に入れられた。家がどこにあり、またどのようなものなのかは定かになっていない。(もし、これがイギリスであったならば、ネフの理由も明らかだ)そして、女は最後の一人が来るまで男を「夫」と呼ばなかった。このことはイブが生まれた理由と関係があるように思う。上記の創世記の記述ではすでに産めよ増えよといわれた後であり、その後、アダムの一人が眠らされあばらを取られ女を作られた。(ローマツァーエゼルケネクドー)この点で創世記で初めての人間はケッツァルモー、ザハル、ウネケバーと言うことになるのではないだろうか。その後、アダムはたくさん作られたようである。そして、アダムとイブが生まれたのである。タカロはなぜ女ができなかったことを苛立ったのだろうか。ここに神格が女を好む理由があるようである。すなわち、唯一なる方の創造に及ばないことを呪っていたのではないだろうか。ここにアダムとイブと他の人間の決定的な違いがあるようである。そして、アザゼル達寝ずの番人はこのことによって、女に向かわされていた。他の神々と同じように。このように考えると、アダムとイブの間には女が生まれたが、他のアダム達には女と言うものはなく、タカロのようなやり方で作られた、と言うのが正しいのかもしれない。しかし、この方法は同様に自らのあばらを使ってその実りによって作るということと同義かもしれない。そして、なぜ女は最後まで男を夫と呼ばなかったのだろうか。

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人類の起源(その三)

世界の初めに、ある神様が、大地の上に二人の姿を描いた。そして、小刀で二つの絵を切り取って自分の血を振りかけて、木の葉をかぶせて置いた。しばらくすると、木の葉が音を立てて動いたので、それを取り除けてみると、二つの絵が生きて二人の男となっていた。神様は、一人にト・カビナナと言う名を与え、一人にト・カルブブと言う名を与えた。
やがてト・カビナナは一本の椰子の木に登って、その実を二つちぎって、大地に投げつけた。すると実は裂けた。そして、その途端に二人の女に変わった。ト・カビナナは喜んで、これを自分の妻にした。ト・カルブブは羨ましくなって、「おい、どうして女を作ったかね。教えておくれよ」と言った。ト・カビナナはその方法を教えてくれた。そこでト・カルブブは、すぐに椰子の樹に登って二つの実を投げ落としたが、投げ方がまずかったので、実の下部が大地にぶつかった。そのために、現れ出た二人の女は、どちらも低い醜い鼻をしていた。こうして最初の人間ができたのであった。(ニューブリテン)

解釈

ト・カビナナとト・カルブブは「ある神様」が大地に二人の姿を描き、その絵を切り取って造られた。自分の血を振りかけて木の葉を乗せたのであるが、二人同時に作ったのにどちらも男であった。ここにザハル、ウネケバーと異なる点がある。そして、言うまでもなく双子の男なのである。この点でトマスの殉教が思い浮かぶ。インドとは遠いと言っても、エルサレムから見るとインドの方面にこの群島はあるのである。また、二人とも椰子の実によって女を二人作っている。この点ではまず、レメクも妻を二人持っていたということとの類似である。これはまた、レメクがなぜ転生したのか、と言う話に起因しているように思う。レメクの妻アダとティラ、そしてビテノシ、さらにはノアの妻エムザラ、はたまたワイレー。ノアに関しても二人の妻がいたような記述が別の神話ではみられるが、これはおそらく、一人の中に二つの人格が入っていたということだと考えられるのである。しかし、問題は、この神話が正しいとするならば、初めにあった双子は男同士だったということである。しかし、ノアの時代には女に関してその問題が生じているように思われる。また、ト・カビナナは初めに椰子の実から二人の妻を作った。こちらのほうは、綺麗に作られ、ト・カルブブの方は醜い鼻をしていた。これは初めに行ったことが正しく現れ、次に行うことは次の時点であるために闇において現れるようである。(仮:光があり、闇へ移動し、夕べがあり、夜明けがあった。夕べに光がもともとあり、夜明けは闇にあったはずである。そして第二の日には、闇に夕べがあり、光に夜明けがあったはずである。そして、光を閉じ込めるために大空を作ったのであり、光が下の水へ、闇が上の水へとなるように創造されたはずである。そして、第三の日には下の水が一か所に集まり、陸ができた。これによって、光から闇を取り除こうとしたのではないだろうか。しかし、闇は消えなかった。そこで、その種がその種の中にとした。つまり、別の物が別の物と一緒になることを拒んだのである。)さて、初めに造られた女のほうが美しく、後に造られた女は醜いという。これは人間のでき方に共通する普遍性であるが、無論、人間をその受胎によって授かる場合にも創造の時と同様の原理が働いているのであるから、その光が同じ場合にはこの法則が成り立つであろう。しかし、別の光によってであれば、この法則は成り立たないであろう。そして、この神話は男から女、そして別の女という順序を示しているようにも思うのである。

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人類の起源(その四)

ある時、ト・カビナナがト・カルブブに向かって、「明るい色をした椰子の実を二つちぎってくるがいい。そして一つは隠しておいて、ほかの一つを私の所に持って来てくれ」と言った。しかし、ト・カルブブは、その言葉に従わないで、黒い色をしたのを一つと、明るい色をしたのを一つちぎった。そして黒いのを隠して、明るいのをト・カビナナに渡した。ト・カビナナはその椰子の実を自分の丸木舟の船尾に括り付けて、自分は船首に座り込んで、海の上に漕ぎ出した。椰子の実は船側にぶつかって大きな音を立てた。しかし、ト・カビナナは決して後ろを振り向かなかった。しばらくすると椰子の実が色の白い一人の女に変わって、船尾の所に座り込んで、しきりに舵を取り始めた。それに気付くと、ト・カビナナはやがて船を磯部にこぎ戻した。ト・カルブブは女を見ると、恋心を起こして、「その女を私の妻にくれ」と言った。ト・カビナナは頭を振って、「それはいけない。お前も自分で女をこしらえるのだ。椰子の実が隠してあるではないか。早くそれを持ってくるがいい」と言った。ト・カルブブはすぐにかくして置いた椰子の実をもってきた。ト・カビナナは一目それを見ると、すっかり腹を立てて、「お前は馬鹿だな。なぜ私の言ったことに背いて、黒い色のをちぎってきたのか」と言った。二人はその実を丸木舟の船尾に括り付けて、海の上に漕ぎ出した。そして以前の通りにして一人の女が現れたが、椰子の実が黒かったので、現れた女も真っ黒い皮膚をしていた。ト・カルブブは、この色の黒い女を妻としなければならなかった。こうして人間ができたが、ト・カルブブがト・カビナナの言葉に従わなかったので、皮膚の白い種族のほかに真っ黒い色をした種族が現れたのだった。(ニューブリテン)

解釈

椰子の実から人間ができたというのはこの話も同じである。しかし、ト・カビナナのほうが女を作るすべを知っているようである。ト・カルブブは一つ前の物語でもト・カビナナから女の作り方を教わり、それゆえにか、ト・カルブブの妻はどちらも醜い女として描かれている。ここには確かに信仰が、偽りのない方法でのみ功をなすということが伺える。しかし、この神話では椰子の実を船の後ろに付けて、船の前でト・カビナナは決して振り向かなかったとある。そのうちに女は生まれて舵を取り始めたとある。ここで女が舵をとることが書いている。要約してみると、「椰子の実は男が海へ出るときに後ろからついてくる魂によって女となり、女は海の船旅の舵を取る、すなわち道案内をする」ということだと考えられる。
この点はアダムとイブのでき方と関係があるのか、もしくは、また異なる方法によるものなのかという疑問がわいてくる。しかし、創世記にはアダムの肋(あばら)から女を作ったとだけあり、その肋にその魂を用いている可能性もある。この点については諸説あるかもしれないが、まず、なぜ海の上ではその船に魂が付いてくるのかという疑問も同じく存在する。また椰子の樹が人間に近いのではないかという疑問もある。前者は海が下の水として上の水を求めているということが可能性としてあげられる。しかし両者は分けられて以来一つになることがあるのであろうか。大空を分けられて再び大空となる原理が愛の根本問題であるならばそれは正しいとされると考えられるが。そして椰子の樹はなぜ人間に近いのかということであるが、そのほかの例に松の木があげられる。北アメリカの話では松の木は昔火を守っていたという。この点が寝ずの番人などとも関係があるように思われるが、どうように椰子の樹も何らかの意味があるように思われる。また、椰子の樹は棕櫚とも同類である。

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人類の起源(その五)

昔、ヒ・アサという女がただ一人住んでいた。ある日、ヒ・アサが木を削っていると、誤って一本の指を傷つけてしまった。彼女は指から流れ出る血を貽貝(いがい)の殻に集めて、その上に蓋をして、しまっておいた。
七日たってから、貝の蓋を取り除けてみると、いつの間にか二つの卵が入っていた。女はまた蓋をしてしまって置くと、数日の後に卵が割れて、一つからは男が生まれ、他の一つからは女が生まれ出た。この男女が人類の祖先となったのです。(アドミラルティ群島)


年を取った一人の女が、ある日海に渡りこんで、貝や蟹などをあさっていますと、双の腕が痛み出した。そこで二本の木片で痛いところを掻き割いた。そして血にまみれた木片は、ガラクタの中に放り込んでいた。
しばらくたって、女がガラクタを焼き捨てようと思って、その傍に行った。そして火をつけようとしてふと気が付くと、ガラクタの山がひどく膨れ上がっているばかりでなく、どうやらむくむくと動いているようであった。女は怪しんでガラクタの山を払いのけると、二人の男の子が生まれていた。右の腕の力生まれたのがト・カビナナであり、左の腕の血から生まれたのがト・カルブブである。そしてこの二人の兄弟が人間の始まりであった。(ニューブリテン)

解釈

一方はヒ・アサという女の指の血から2つの卵となりそこから男女が生まれたとあり、他方は腕の血が木片についてト・カビナナとト・カルブブとなったとある。いずれにしてもメラネシアの神話ではこのト・カビナナとト・カルブブが重要であるようである。ヒ・アサというのがつまり卵の侏儒の原因として考えられるが、ト・カビナナとト・カルブブに関しては、外典旧約のアダムとイブの生涯に出てくる、二人のエチオピア人、すなわち太陽と月ではないかと思う。しかし両者がどちらであるかはなかなか判断が付かない。

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人類の起源(その六)

大昔、ト・カビナナとト・カルブブという二人が、夜、海に出て網を投げていた。すると、一本の砂糖黍(さとうきび)が波のまにまに流れ寄って、網に絡みついた。二人はそれを外して投げ捨てたが、しばらくするとまた網にかかった。二人は少し腹を立てて、「しつこい奴だな」と言いながら再びそれを投げ捨てた。しかし、まもなく三度網にかかったので、二人は不思議に思ってそれを地に植え付けた。
砂糖黍はだんだん大きくなって、茎のところが膨れ上がってきた。そしてある日、二人が狩に出掛けた留守に、茎が二つに裂けて、その中から一人の女が現れた。
女は二人が住んでいた家に入って、いろんな食べ物をこしらえ始めたが、それが済むと、また砂糖黍の茎の中に隠れた。狩から帰った二人の男は、留守の間に食事の用意ができているのを見て、大いに驚き怪しんだ。そんなことが二日も続いたので、三日目には、「留守の間に、誰かがやってくるのに違いない。今日はそれを見届けてやろうではないか」と話し合って、狩に出ていくふりをして、そっと家のそばに隠れていた。しばらくすると、砂糖黍の茎が裂けて女が現れた。そして、家の中に入って来たので、二人は素早く物陰から飛び出して、驚き騒いで逃げかかった女を捕まえた。女は二人のうちの一人の妻となった。そしてその夫婦が人類の祖先となったのです。(ニューブリテン)

解釈

この話では砂糖黍から女が生まれている。植物が女となる話、女が植物になる話などあるが、おおよそ創世記のザハル、ウネケバーという性別の関係が引き金になっているように思う。そして、一番重要なのは、食べ物を用意するために家に入るということであるが、この手の話がアフリカの神話にもみられるという点である。このような登場人物はおそらくモンダミンと関係があり、またミャハやゲーウシュルワンとも関係があるようである。しかしここでは食べ物をこしらえるという点で、若干の趣が異なる。これはまた、ジャムシードの囲繞地やヨセフの倉と関連があると思われるが、そもそも何かを保存するということが、実際に時を変えているようである。現代でもその最たるものが金銭で、経済によってその温存が可能となっている。この方法は動物を養うことができるが、植物たる命を養うことができるだろうか。聖書では生命を養う食物がマハルであることを我々は見出した、とあり、やはりこの点で食物も食べるときを見誤るべきではないようである。すなわちいくら自分のお金であっても、それを食す資格がなければ、食事は欲と数えられ、過度であれば罰を受けるものである。これは肉体が単に食物や栄養だけではなくそのマハルによって生きているということを示唆している。それはその保存や交換が必然に至るような仕方のなさによって許される。つまり、たとえ正当な理由があったにせよこのような保存や交換は確実に永遠的客体の全体例証に影響を及ぼしているのであって、その監視から逃れられないものである必要がある。そして便利と言うこと自体が、このような実際の営みにおけるその瞬間の変化に対する感受性を鈍付かせている。現代までも続いている問題の一つと言えるだろう。しかし経済自体はミャハやいくら食べても減らない豚のような特殊な肉なるものにおいて発生した問題なのかもしれない。

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火の起源(その一)

世界の初めには、火と言う物がなかった。ただゴガ(Goga)という年寄の女だけが、自分の体の中に火を持っていた。ゴガは、みんなのいない時を見計らっては、体の中から火を出して、食べ物を煮たり炙ったりしていた。そしてみんなが帰って来ないうちに、あたりをきれいに掃除して、自分の大切な秘密を悟られないようにしていた。
しかし、とうとう一人の若者が、それを悟った。ある日、彼はゴガの家にやってきて、いろんなことを話しているうちに、女の隙を狙って、いきなり燃木をつかんで逃げ出した。女は驚いて、そのあとを追っかけたが、どうしても捕まえることができなかった。若者は燃木をもって駆けているうちに、手を焼いたので、枯草の上にそれを放り出した。みるみる草に火がついて、次第に燃え広がって、とうとう一本の樹に燃え移った。樹の幹に洞(うつろ)があって、その中に一匹の蛇が棲んでいたが、火はその蛇の尻尾に燃えついて、さながら松明のようになった。
ゴガは、到底火を取り返すことができないと気が付くと、魔法を使って大雨を降らした。水の力で火を消してしまおうと考えたのです。雨が止むと、人々は火を探しに出かけたが、もうすっかり消えてしまった。がっかりして歩き回っているうちに、木の洞穴を見つけた。何気なくのぞき込むと、一匹の蛇がその中にいて、尻尾が松明のように燃えていた。人々は「しめた、火が見つかった」と叫んで、蛇を引き出して、その尻尾を切り取って、木を積み上げてそれに火をつけた。こうして人間は火を持つようになった。(東部ニューギアナのマッシム族)

解釈

ゴガという女が体の中に火を持っていたとある。女で火の性質を具えるものとしては、ポリネシアのペレ(火山の女神)、アイヌのアペフチ、北アメリカの神話にも火の番をする者の妹、等があげられる。火を盗むという話は世界中にある。もっとも印象的なのはペルシャに見られるホーシャングが人のような姿の者が火の中に姿を消したときに、火を授かったという話であるが、本来の意味は火を盗むというほうが正しいのかもしれない。しかしそれはこの地域が本来火のない種族で水に属するからかもしれない。ギリシャ神話ではプロメテウスが人間に火を与えたとある。火は本来扱う者を選ぶということなのか、すなわち権利が必要である。しかし、火をうらやむ者によってそれを奪うことが起き、それはすなわち争いの元なのかもしれない。しかし、これは動物たちの話であって、人間にとっては授かったものとみるべきか、北アメリカの話をはじめ太平洋地域では授かったというより盗んだという話が多い。人が創造された際に、動物たちの神、ギリシャ神話にいうプロメテウスは動物が火によって発展したことを知っていたために人間にも火を与えたのかもしれない。

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火の起源(その二)

あるとき、ウリムガウという者の娘が、森の中を歩いていると、一匹の蛇が現れて、「私のお嫁になってください」と言った。乙女は「誰がお前なんかのお嫁になるものか。お前は蛇ではないか」と答えた。蛇は「体は蛇ですが、言葉は人間と同じです。さあ、私についておいで」と蛇が言った。乙女はとうとう蛇の妻になって、一人の男の子と、一人の女の子を産んだ。ある日、蛇は子供たちに、「さあ、この魚を料理するがいい」と言った。子供は「まだ日が出ていないんです」と答えた。しばらくすると太陽が現れた。子供たちは、太陽の熱で魚を温めて、食べた。それを見ると、蛇が「仕方のない奴だ。生のままで物を食うなんて。そんな風だったら、やがては私までも食べてしまうだろう」と顔をしかめていたが、やがて男の子に向かって、「さあ、お前は私の腹の中に這い込むのだ」と言った。男の子は驚き恐れて、「そんなことすると、死んでしまいます。」と言ったが、蛇は「なんでもいいから早く腹の中に入れ」と言うので、仕方なく男の子は蛇の腹の中に這い込んだ。と、蛇は大きな声で「どうだ、私の腹の中に火が燃えているだろう。それを持ってでるのだ」と言った。男の子は火をもって、蛇の腹から這い出して来た。蛇は芋やその他の品をその火で煮て、子供たちに食べさせた。そして、さも旨そうに食べている子供たちに向かって、「どうだ、生のままで食べるのと、煮て食べるのとでは、どちらが旨いかね」と尋ねた。子供たちは、無論煮て食べるほうが旨いと答えた。(アドミラルティ群島)

解釈

この神話では蛇が自分の子供に火を渡して料理するように言っている。ここには火の性質が現れているように思われる。火は動物にとって力であり、人間にとっても同様である。動物に弱肉強食があるというよりは火に弱肉強食があるのだと思う。つまり、火を扱うことができず火に飲まれるゆえに火に焼かれるということであり、火に焼かれた者は火に食われるのである。これが正当な殺生であり、水に流して倒すのでは理不尽と言うことかもしれない。火で焼いて食べる場合には正当な殺生として火を食べているのであり、火にとって良いことと考えられる。すなわち、動物は人間に火によって負けたものとして食べられているのであり、火によって動物が勝る場合には猛獣に食われるということであると考えられるのである。動物たちは火によって人間を試しているのであり、人間の火が動物に勝る場合には猛獣であっても手出しができないと考えられる。そこには動物の個としての行動ではなく、全体の主体性による規制が働いているようである。動物は本来的に個としての行動はなく自由による支配をされにくいと考えられるが、一部のペットにおいては人間同様にコントラストを持ちうるようにも思う。動物と寝てはいけないという理由の最たるところに動物を個として自由にしてはならないという規定があると考えられる。しかし、鳥や魚に関してはその範囲にないようである。

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火の起源(その三)

大昔の人間は、火と言う物を知らなかった。ある日、エマコング(Emakong)が、河岸を歩いていると、体に付けた飾りが解けて、水の中に落ちた。エマコングはすぐに腰巻を外して、河の中に飛び込んだ。河底に潜ると、不思議や一軒の家があって、自分はその庭に立っていた。あたりを見回していると、大勢の者が現れて、エマコングに名前を尋ねた。名前を答えると、大勢の中の一人が、自分もエマコングであると叫んだ。そして戸惑っているエマコングを自分の家に連れて行って、新しい腰巻を与えた。その家の中には火が燃えていた。エマコングは生まれて始めて火を見たので、じっと眺め続けていた。彼は赤く燃えている火が怖くてたまらなかった。主人はそんなことには無頓着に火で食べ物を煮て、エマコングの前に出した。それを食べてみると、生のままよりずっとうまいので、エマコングはだんだんと火が怖くなった。
しばらくすると、あたりが暗くなり、蟋蟀(こおろぎ)が鳴き始めた。エマコングはまた恐れだした。彼の国には夜も無く、蟋蟀もいなかったのであった。それからまたしばらくすると、雷の轟くような音が四方に響いて、家の中の者がみんな蛇に変わってしまった。エマコングは真っ青になってぶるぶる震えだした。すると、主人がニコニコ笑って、「何も怖がることはありません。あなたは私と同じ名前だから、決して害を加えるようなことはしません。暗くなったのは、夜というものが来たからです。そしてこの国では、夜が来ると、みんな蛇になって眠るのが風習です。いまにあたりが明るくなって、元の姿に戻りますよ」と言った。そして自分も蛇の姿になって眠り始めた。ただエマコングだけは、人間の姿をして、いつまでも目を覚ましていた。夜が去って、鳥の声が聞こえ始めると、また大きな音がして、その音と一緒に蛇になっていたものが人間の姿に返った。
主人は、一つの包を取り出して、その中に「火」と「夜」と「蟋蟀」と「暁を告げる鳥」とを包んで、お別れのしるしにエマコングに渡した。
エマコングは水を潜って、河端に浮かんだ。そして包の中から火を取り出して、乾いた草の上に投げ出した。草は見る間に燃え上がって、勢いよく炎を立てた。と村の人たちは魂が消えるほどびっくりして、一散に逃げ出した。エマコングは一生懸命に彼らを呼び止めて、河の底での冒険を話して聞かせた。そして包を開いて、その中に入っているいろんなものを見せ、その効用を説いて聞かせたので、村の人たちはたいへん喜んだ。それ以来人間世界に夜があり、火があるようになった。(ニューブリテーンのスルカ族)

これらの神話の他、ニューブリテーンのモツ族の物語によると、大昔、まだ世界に火が なかった頃、ふと海上遥かに煙が立っているのを見つけて、離れ島に火があることを知り、蛇、袋、狸、袋鼠などが、代わる代わるそれを盗みに出かけたがえ、波路を渡りかねて、みな不成功だった。最後に犬がその島に渡りついてみると、女たちが火で食べ物を煮ていたので、いきなり燃木を盗んで、首尾よくもって帰ったという。

またウッドラーク島の神話によると、世界の初めに一人の老女だけが火を持っていた。息子が彼女をせめて「火があるのに、私に生の芋を食べさせるから、喉の皮がすり剥げて困る」と言ったが、老女はやはり火を与えなかったので、息子はそれを盗み出して、人々に分けてやった。女は怒って、残っている火を二つに分けて、空に投げ上げると、大きいのが太陽となり、小さいのが月になったという。

解釈

メラネシアでの火については二種類の神話が存在するようである。一つは蛇が火を分け与えるという話と、女が火を分け与えないゆえに盗むという話である。メインの話では、火のほかに夜や蟋蟀、暁を告げる鳥(たぶん鶏)なども一緒にもらい受けている。これはホモニムによる同一性である。しかし不思議なことに当人に火が無く、同名の人が火を分け与えているのである。この点を鑑みるに、人間にとっては火は生きるのに必須と言うわけではなく動物、しかもきわめて蛇や竜によって火が与えられている。これはある意味では、動物による力の承認ということではなかろうか。すなわち、人は動物に勝つことで蛇、竜の承認を得る権利を受けるのである。これによって活力を得るということだろうか。また、ここでは、エマコングは河の底で家を見つけている。この家はベトナムの神話に出てくるようなものと考えられる。これが竜宮城と同一であるように思うのである。この点で人生の宝とは、動物性の規定によって複数人いる同一人物が龍神的神格によって統合され、自分と同一の存在としてあらわれることによって、その人の存在理由が人間のそれとなることではないだろうか。本来的にアジア人は動物性から逃れることができず、存在は複数人で一つをなしているようである。しかし、その一グループは龍神によって集団として統一されており、全員で一つの人間を構成している。すなわち共同体であることを抜けなければ人間にはなれないのである。しかし、単に抜けるとなれば、自分自身の一部を統合できておらず、したがって、龍神に会ってその存在の証明をする必要があるのである。この証明によって始めて人間であることの証を得る。日本もその例外ではない。この点では「ヘイムダルの歌」にあるように、またアブラハム、イサク、ヤコブのように信仰によって正しいとされた者の子孫が家を受け継ぐことによって人間が成長するという原理と対置してとらえる必要があり、また、この儀礼における人格の証明が単に原始的な人間としての証なのか、ある程度の、すなわち家が名を持つほどの証なのか定かではない。しかし、少なくとも、大多数として猿と同様の動物性のみを示すというわけではないのは事実である。日本をはじめとする太平洋においては、いわゆるナーガルジュナによって管理された全体の内に、ホモニム的共同体が形成され、本来の存在は封印された状態であるという訳である。つまりは、この儀礼を通じて得られるのは「火」「夜」「宵の明星の知らせ」「明けの明星の知らせ」であると考えられる。

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死の起源

人間は、始めのうちは死ぬということがなかった。年を取ると、蛇や蟹のように皮を脱いで、わかくなるのであった。ある日、一人のお婆さんが、「私も大分年を取った。一つ皮を脱いで若返ることにしよう」と言って、ある流れの側に行った。そして古い皮を脱いで、流れに投げ捨てた。皮は一本の杭に引っかかった。女が家に帰ると、子供は女の姿を見てもあまりに若くなっているので、見知らなくなったのであった。女はにこにこ笑って自分がお母さんであることを告げた。子供は頭を振って、私のお母さんはこんなに若くはないと叫びながら泣き出した。女は仕方がないので、急いで流れに取って返すと、自分の脱いだ古い皮が杭にひっかっていた。女はそれを拾って体につけると、また元のお婆さんになった。子供はその姿を見てやっと納得した。それ以来人間は皮を脱がなくなった。だから年をとって死ななければならないようになったのです。(バンクス群島)

人間が神様の手で作られてから暫くたった後のこと、性質の善い神様や、心のねじけた神様などが寄り合って、人間の命について、議論を始めた。「私たちが造った人間どもは、うまく暮らしていけるようだ。だが彼らは、自分たちの皮に次第に皺がよっていることに気が付かないらしい。まだ若いからいいが、年を取って、ひどく皺が寄ると醜くなる。それで私たちは鰻の皮を剝ぐように、人間の皮を剥いでやることにしよう。そうすれば新しい皮ができて、いつまでも生き続けることできる」と善い神様が言った。すると悪い神様は、「そんなことをしてはいけない。人間が年を取って醜くなったら、大地に穴を掘って、体をその中に埋めてやることにしよう」と言った。そして悪い神様の言い分が通ったので、人間は死なねばならなくなった。(アムブリム[Ambrym])

一人の男があるとき漁に出掛けた。と悪い精霊が彼の姿を見つけて、「いい物が見つかった。あいつを殺して食べてやろう」と考えた。男は悪い精霊が自分の後をつけて来るのに気が付くと、非常に驚き恐れて、森の中に逃げ込んだ。すると一本の樹の幹がおのずと開いたので、男はたいへん喜んで、その中に潜ると、幹はすぐに元のようにふさがった。後をつけていた精霊は、男の姿が急に見えなくなったので、変に思って、あちこちと探し回った。しかし、どうしても見つからないので、そのまま立ち去った。やがて樹の幹が開いて、男を出してくれた。男がそのまま立ち去ろうとすると、樹がそれを呼び止めて、「命を助けてやったお礼に、白い豚を二匹もってきてもらいたい」と言った。男は村に帰って二匹の豚を手に入れた。そのうちの一匹は真っ白だったが、ほかの一匹は黒い毛並をしていた。男は黒い豚の体に白い土を塗って、「これなら、樹の奴をだますことができるだろう」と言って、白い豚と一緒に樹のところに引っ張ってきた。が、樹はすぐに彼の計略を見破って、「私はお前に親切を尽くしたのに、お前は私をだます気でいるね。よし、そんな恩知らずは、今後助けてやらないから、そう思うがいい。」と言った。その後は、人間は悪い精霊に殺されるようになった。死というものは、こうして人間の忘恩から起こったのであった。(アドミラルティ群島)

解釈

年を取ると皮を脱いで若返るというのは爬虫類や鰻のような方法でと言う訳である。この点についてはアフリカでカメレオンが人間に人が永遠に生きてよいという知らせを告げるのが遅れて死なねばならなくなった。という話に似ている。動物には聞き間違いや見間違いなどの誤りがつきものなのであろうか、そういった類の話によって運命がかわったりする話がよくある。これは人間でも同様で、実際に共同体を組む理由は個人の欠落ゆえであるので、我々は本来一人であるべきで、寝食を共にするような仲は結婚相手以外にあり得ないのである。動物はその種の主体性においてそれぞれが役割を担う形で、実際主体が完全であるのに対して、個は不完全であることを免れない。人間も同様で、共同体に主体を還元する場合においては、共同体を完全とするゆえに個体は不完全となるのである。これは客体が主体を例証し、それを分けられたものとして個を映すゆえにである。
話を戻してまず最初の話ではお婆さんは子供が自分を母親と見なかったため元の姿に戻ったとあるが、これは母が子を食らうという意味合いを含んでいるかもしれない。つまり、女が皮を脱いで若返ることが、子供の命を実質減らすことにつながっているのではないだろうか。逆に言うと、もともと人間は子を産まなければ、皮を剥いで若返って、永遠に生きることができるようになっていたが、子を産んだことによってそれを禁じられたのではないだろうか。二番目と三番目の話はどちらも悪い神によって死ななければならなくなったとある。二番目の話は悪い神の意見が通り死に定められたという。しかし、三番目の話は不思議である。悪霊は男の命を狙い、樹がそれを助けた。樹はお礼に白い豚を二匹要求したが、一匹は黒豚だったが白く塗っていた。このことは、ケルトの神話にあるいくら食べても減らない豚と関連がありそうである。すなわち、樹はこの豚を要求したのではないだろうか。しかし、もう一方の豚はなぜ黒かったのだろうか。樹はこの白い豚のゆえに悩んでいたようにも思うのである。男が白い豚のみを差し出していたならば、生きることができたのであろうか。白い豚はもともと一匹で樹はその豚と黒い豚を見分けることができなかったのかもしれない。白い豚のほうが問題があるようにも思うのだ。つまり、本来無である物が全体から離れたということが白い豚、つまり数を持たないゆえにいくつでもあるという魂の作用を持つ物となったようである。マタイ8:28~34,9:1~38,ルカ8:26~39,マルコ5:1~43においてもこれに関連することが見出される。ここでいう悪霊と言うのがレギオンに乗り移っていたようである。

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人肉食い

ト・カビナナとト・カルブブという浸りの兄弟が、ある日、野原を歩いていた。しばらくすると、ト・カビナナがト・カルブブに、「二人で出歩いていては、お母さんがかわいそうだ。お前は家に帰って、お母さんの始末をしておくれ」と言った。二人は兄弟でも性質はまるで反対であった。ト・カビナナは非常に賢い男であったが、ト・カルブブは愚か者であった。ト・カルブブは、母の始末をせよと言われて、すぐに家に帰って来た。そして火を燃やして、その中に石をたくさん投げ込んだ。火が消えかかった頃には、沢山の石が真っ赤になっていた。これを見ると、ト・カルブブは、「さ、お母さんを始末する支度が出来た」と独り言を言って、今度は竹でこしらえた瓶に水を一杯汲んで、いきなりお母さんの頭から浴びせかけた。(未解人は食物を料理するとき、これを水に湿らせて、それから焼けた石の上に置く)そしてお母さんを抱えて、「じっとしてください。今によく始末してあげますよ」と言うなり、焼き石の上に投げ倒して、その上からどんどん熱灰をかけた。「さあ、これでお母さんの始末ができた。きっと兄弟も喜ぶだろう」ト・カルブブはこう言って、ト・カビナナの所に馳せ戻って来た。「どうだね、お母さんは程よくしてくれただろうか」とト・カビナナが何気なく答えた。これを聞くと、ト・カビナナは飛び上がるほど驚いて、「誰がそんなことをしろといった。とんでもない」と叫んだ。ト・カルブブは「だて、お母さんをよく始末しろと言ったじゃないか」ト・カルブブはこう答えて、きょとんとした顔をした。ト・カビナナは、ト・カルブブの愚かさに悄然として、「お前は、いつまでたっても、馬鹿なことばかりしているね。私たちの子孫は、これからきっと人間を炙って食うようになるだろう」と言った。こうして人肉を食う風習が始まったのであった。(ニューブリテン)

解釈

ト・カビナナとト・カルブブは両義語によって一方は善意を他方は悪意を表していると考えられる。これはそもそも言葉として存在するのか不明である。と言うのも、言葉とは本来その意味を誤ることがないと考えられるのである。また、意味を誤るような表現は話す必要のないことなのかもしれない。すなわち、言葉にならないことでさえ、我々は口を開いて行為によって表現できる自由を持っているからである。しかし、この自由と言うのも当人の自由ではないかもしれない。すなわち当人の魂から逸脱したところに、善霊か悪霊があり、善霊か悪霊ゆえに口を開くと考えられるのである。ここでは母のことなど放っておいてもよいような感じがある。しかし、善意と言うのもおせっかいで不要な気遣いを母に向け、さらには兄弟を使役している。この点で善意には悪意に対する敬意が欠落している、と言うよりはむしろ悪意に関与する必要がないにもかかわらず善意によって悪意に対する働きを余儀なくされているようにうかがえるのである。両者は決して交わることがないにもかかわらず、同一の場所で関係を余儀なくされていると思われる。この問題によってゾロアスターは善思、善言、善行を推奨しているように思う。それは切り離すべき二者を互いにくっつけることによってである。善意も悪意も別にしておく理由はどちらも神の働きを担い得るという点である。すなわち、神のみを信じる必要があるのである。神の前では善意も悪意も意味をなさない。ただ行うべきことがあるのみである。本質的には善意も悪意も分ける必要があり、我々は常に神に信仰を帰せなければならない。信仰を帰するときにはじめて神はその応報を受け渡す。その義に見合った褒賞を与えられる。ここではしかし、母ゆえの罪も認められるのではないか、と言うのも東南アジアでは母が息子を食う話も多くあり、女の罪ゆえに悪夢を見るという話も多いからである。この点、善意にもそれを助長する悪があるのかもしれない。この関係は直に女と蛇の関係にあるように思う。女は善意ゆえに蛇とあった可能性があり、蛇は善意ゆえに人間に介入したのではないだろうか。特にメラネシアの神話では第一の日から二の日、蛇、それからタニームや魚に関する話が多いと見受けられる。

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魚の作り損じ

ある日、ト・カビナナが木を彫って、一匹のツム魚の形を刻んだ。そしてそれを海に浮かべて、呪文をを唱えると、動き出して、水の中に泳いで行った。それ以来ツム魚は、いつも海の中を駆け回って、おびただしいマリヴァラン魚を浜辺に追い詰めてくれるようになったので、ト・カビナナは、暢気にしていて沢山の食べ物が手に入るようになった。
それを見ると、ト・カルブブは大変羨ましくなった。そこでト・カビナナに向かって、「どうしたら、あんなにマリヴァラン魚がたくさん取れるのかい」と尋ねた。ト・カビナナは詳しくその手段を教えてやった。ト・カルブブは大変喜んで、すぐに木を彫って魚の姿を刻み始めたが、根が愚か者なので、ツム魚は造らないで、鮫の形を作ってしまった。そこで、海の中に投げ込まれて生きて動くようになった鮫は、魚を浜辺に追い上げるどころか、自分で皆食べてしまった。これを見ると、ト・カルブブは暗に相違して、「ト・カビナナ、駄目だ。私が造った魚は自分でいろんな魚を食ってしまうだけだ」とこぼした。ト・カビナナは不審に思って、「いったいどんな魚を作ったのだ」と尋ねた。ト・カルブブは「鮫を作った」と答えた。ト・カビナナは、相手の愚かさにあきれて、「本当にしょうがない馬鹿だ、お前は子孫の苦しみの墓を開いたようなものだ。今後鮫は魚を食いつくすばかりでなく、人間までも取って食うだろう」と嘆息した。(ニューブリテン)

解釈

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鳥の糞の化粧

昔、タガロ(Tagaro)とメラグブト(Meragbuto)という二人の男がいた。タガロは非常に賢くて、メラグブトはひどい愚か者であった。ある日、タガロが椰子の油を頭髪に塗って、見事に化粧していた。メラグブトはそれを見て、「素晴らしいものだな。どうすればそんな立派な化粧ができるのだ」と尋ねた。タガロはそれには答えないで、「お前は鳥を飼ってるかね」と言った。メラグブトは「何羽も飼っている」と答えた。「では、鶏がねぐらに付くのを待って、その下に座っているがいい。そしたら鶏が上から油を垂らすので、それをよく塗るように」とタガロが言った。
メラグブトはいいことを聞いたと喜んで、その夜、鶏がねぐらに付くのを待って、その下に座っていた。たくさんの鶏は、代わる代わるメラグブトの頭に糞を垂れかけた。メラグブトは、「大分油がかかった」と大喜びで鶏の糞を頭から体中に塗りつけた。明くる日、メラグブトは意気揚々として、これ見よがしに村の祭礼に出掛けて行った。すると、村の人たちはたちまち鼻をつまんで、臭い、これはひどいと叫びながら、四方に逃げ散ってしまった。メラグブトはやっとタガロに騙されたことを悟って、大急ぎで海の中に飛び込んで、一生懸命に体を洗い清めた。(ニューヘブライズ、レパース島)

解釈

タガロとメラグブトはト・カビナナとト・カルブブだろうか。いずれにしても名称が異なるだけでこの二者は同一の神格を示しているように思える。しかし、注意が必要なのは、名前が異なることがすなわち他の神格として存在をしている可能性もあるという点である。特に海に近いメラネシアはこの重複があり得るという点は注意したい。いずれにしてもこのような滑稽話が多いのは事実である。

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火除け穴

メラグブトがいつも愚かなことをして、みんなに迷惑をかけてばかりいるので、タガロはこれを殺してしまおうと決心した。ある日タガロは、自分の家の床の下に深い穴を掘った。そしてその上に、木の葉や土などをかぶせて、誰も気が付かないようにすると、メラグブトはを呼んで、「私の家に火をつけてくれ」と言った。メラグブトは驚き怪しんで、「そんなことをしたら、みんな焼け死んでしまうではないか」と言った。「そうだ、私の一家が焼け死んでしまったら、お前が酋長となって、一人天下で威張れるではないか。ぜひ火をつけてくれ」とタガロが言った。そこで、メラグブトはタガロの家に火をつけた。そして炎々と燃え上がるのを見届けて、家に帰ってぐっすり眠った。タガロやその妻子は家に火が付くと、素早く穴の中にもぶり込んだ。そして火が鎮まるのを待って、穴から這い出て、灰の中に座り込んでいた。眠りから覚めたメラグブトは「今頃は人間が丸焼けになっていい食べ加減になっているだろう。酋長になれた上に、人間の丸焼けが食べられるとは、俺もよくよく幸福者だな」とタガロの家の焼跡にやって来た。と、タガロやその妻子は、平気な顔をして、灰の中に座り込んでいる。メラグブトは夢かと驚いて、「どうして焼死を免れて生きているのか」と尋ねた。タガロは笑って、「炎なんか怖くない。焼けども全くしていない」と答えた。これを聞くと、メラグブトはひどく面白がって、「それでは、今夜私の家に来て、火をつけておくれ」と言った。その夜、タガロはメラグブトの家に火をつけた。家の中に入っていたメラグブトは、襲い掛かる炎にもがき苦しんで、「タガロ、火が私を焼いている。私は死にかけている」と叫んだ。これに応じてタガロは、「死にはしない。私の時もその通りだった。しっかり我慢しろ。すぐになんともなくなるから」と言った。そして果たしてすぐになんでもなくなった。なぜならメラグブトは焼け死んでしまったからである。(ニューヘブライズ、レバース島)

解釈

タガロはメラグブトは殺そうとしたという。この話はしかし、悪霊メラグブトが人間をそそのかしすぎたことによる応報として考えられる。それはすなわち、タガロが勝つことによって人間がメラグブトの悪意に打ち勝つようにと考えられた話と思われる。ここには確かに善思という鍵があるが、しかし、メラグブトは愚かである点で救いようがあるということをないがしろにしているようにも思える。しかし、人間にしろ、神格にしろ、あまり多くの悪意にまみれてしまっては、本来の意味をなさない。この点で、メラネシアにおいても悪意に満ちた結果このような神話が救いとなっているのではないだろうか。メラグブトは確かに悪霊である。しかし、この両者が同一の空間に存在する点で、悪意は神の技の一端を担ってもいる。ただし、これを承認することは我々にはできないのである。人間の悪意は時に技となる。しかしいずれにしても、神に仕える場合のみ有効となるのである。この点をよく吟味することが重要で、決して私欲のために使ってはならない。上の神話で上げている聖書の引用のように、複雑な状況において、人々はそれに耐えるのが苦しいゆえに擁護されるのである。この意味はタガロがメラグブトを退治しようとするように、我々の悪意が仕方ない場合においても裁かれるという点で疑問を持つべきであるという教訓ととらえたい。しかし、人が本当に他人の仕事について平等に、また、生まれる命がその以前から受け継がれるということを理解したうえで測り違えないなら、我々は真の平等を実現し平和を望むことを許されるのである。すなわち、共同体を組んで愚かにもその内側だけを人間としてそのほかを軽んじるような目線では平和は愚か愛すらも成り立たないのである。よい機会とは十分に準備されるものであり、悪い機会と言うのは不完全なのである。人々はこの原理によって人を服従させるために不利な状況をよい機会という。善意にとらわれた不信神者は永久に地獄で多幸感にとらわれて地獄で働くがいい。

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カットの船つくり

カットが人間を作ったことは、すでに説いた通りであるが、人間創造の仕事が済むと、彼は十余人の兄弟に向かって、「どうだ、めいめい船をこしらえることにしようではないか」と言い出した。兄弟たちはすぐこの申し出に賛成して、各々船を作り始めた。カットも、一本の大きな樹を伐り倒して、みんなに気づかれないように、毎日そっと仕事をしていた。しかし彼の仕事は、幾日たっても少しもはかどりませんでした。と言うのは、朝から夕方まで樹を伐り刻み続けて、「これでやっと船の形になった。明日はまたこの先の仕事を続けよう」と言って帰ったが、朝になって仕事場にやってきてみると、折角船の形に刻んだ材木が、まるで伐り倒したままの樹に返っていたからです。こんなことが毎日続くので、カットは「誰か私の仕事の邪魔をしているらしい」と思って、ある夜、仕事を済ました後で、豆人形のように体を小さくして、一つの木片の下に潜んでいた。夜が更けた頃、大地に開いている一つの穴から、年を取った小男が現れてきた。そして、材木の周りに飛び散っている沢山な木片を拾っては、切り取られたところに継ぎ合わせ始めた。根気よくそれを続けているうちに、船の形になっていた材木は、元の樹に返った。が、ただ一片だけの材木が足らないので、小男はしきりにそれを探し回っているうちにカットが隠れている木片を見つけた。「ここにあったのか、これで元のようになるぞ」小男はこう言いながら、何気なくその木片を拾い上げようとする途端、カットは元の姿に返って、「私の仕事の邪魔をする奴は殺してしまう。」と言って、斧を振り上げた。小男はカットの友達のマラワ(Marawa「蜘蛛」)が変装しているのであった。彼は驚き慌てて、「斧を引っ込めてくれ、私はマラワだ。船は私が仕上げてやるから、命だけは許してくれ」と叫んだ。カットが許してやると、マラワはカットと一緒になって懸命に働いたので、まもなく立派な船が出来上がった。兄弟たちもめいめい船を仕上げていた。彼らはカットが秘密に仕事をしていたのに気が付かなかったので、「今度こそカットの鼻を明かすことができた」と言って、一同そろって自分たちの船の進水式を執り行った。船が水の上に滑り出したとき、岸に立っていたカットがさっと手を挙げた。と思うと、船と言う船がみんな波の底に沈んでしまった。兄弟は「どうしたのだろう」と大騒ぎをしていた。すると、遥か彼方から一隻の船が矢のように進んできた。兄弟たちが驚いて眼を見張ると、その船の中にはカットがマラワを伴って乗り込んでいた。兄弟は口惜しさに地団太を踏んで「いまいましい、またやられた」と叫んだ。兄弟たちは余り忌々しいので、カットを殺して、その妻や船を奪おうと決心した。彼らは陸蟹の穴を探し出して、カットをその傍に連れて行った。そして「お前、穴に入って蟹を捕えてくれ」と言った。カットは快く引き受けて、穴の中にもぐりこんだ。そして一心に蟹を探していると、兄弟たちがその隙を狙って、大きな石を穴の中に転がし込んだ。「これでカットは片付けた。船を取れ、妻のロ・レイ(Ro Lei)を取れ」彼らはこう叫んで、一斉にカットの家のほうに駆けだした。穴の中のカットは、うまく石を避けて、「マラワ、私を家に連れて帰ってくれ」と叫んだ。魔法に長けた友達のマラワは、すぐにカットを家に連れ帰ってくれた。勢い込んでかけてきた兄弟たちは、カットが妻のロ・レイの側に座っているのを見て肝がつぶれるほど驚いた。兄弟はそのあともカットを殺そうとして、いろんな手段を巡らしたが、いつもカットに負かされてしまうのであった。

解釈

この話は非常に不思議である。船を作るとあるが、これはノアの箱舟に近い気がする。マラワは悪戯好きではあるが、悪い奴ではないということが見て取れる。しかし、カットがノアであるのかと言う疑問が出てこないのが不思議である。と言うのも、カットとマラワは船に乗ってどこかに行っていないからである。この点で、カットとマラワの神格性を見出すのである。ノアはこの二人の協力を見出し船を作っていたのではないだろうか、と思うのである。そして、ここでは女であるロ・レイというカットの妻であるが、パレスチナの神話ではノアはワイレーという妻を持っていたとある。しかし、ヨベル書ではその妻はエムザラである。似たようなことにヨブの妻に関しても二人の妻がいたとある。これは余談ではあるが。つまり、ロ・レイとワイレーは発音が似ているという点で、不思議に思うのである。そしてマラワは蜘蛛とある。蜘蛛はインドネシアでは世界創造の際に土を集めたとあり、また、蟹も土を集めているのである。ここでカットが蟹であるという確証はないが、カットは兄弟たちに陸蟹の穴へ入るように仕向けられている。この点に、カットが自分を見誤った証拠があり、これゆえにカットとマラワはノアと一緒に箱舟に入ることができず、海の底に沈んでいると考えられるのである。そして、ノアが驢馬を箱舟に乗せようとしたときに、驢馬にイブリスが蠅としてついていたために申し訳がないとして箱舟に乗らなかったとある。つまり、カットとマラワはイブリスによって、ノアの箱舟に乗ることができず、驢馬もそうであったと考えられる。そして、オグはすなわちノアをののしっていた兄弟たちの親である。そしてカナンはその親であるが、カナンは箱舟に乗っている。おそらくノアは葡萄酒を飲んで酔っているときにカナンの罪を発見したのである。その理由は酔っていないときには人の心がわからないからかもしれない。しかしそれでもカナンはそれを隠し通そうとしていたため、ノアは自ら服を脱ぎ、カナンの親であるハムが自分に罪を隠していたことを見つけ出した。しかし、ここでようやくノアは自分が罪人を箱舟に乗せたことを見出したが、この蠅に化けていたイブリスは確かに驢馬を試していた。それは自分が助かるべきであることを見出せなかったからである。本来はこのマラワの良心に答えてたとえそれがイブリスであっても乗るべきであったのである。すなわちこのカットとマラワの友情はかけがえのない機会であると言えるのである。しかし、当然のごとくこの二人の友情は長くは続かず、時によって神はこの二人を引き離すのである。クルアーンにはイブリスがアダムにサジダしなかったことは確かに悪かったと書かれている。しかし、そのほかの罪については書かれていないのである。そのサジダが本当に人間やすべての被造物を救う鍵になったがためにイブリスは深く罰せられた。しかし、おそらくその後の働きについては、神のもとに悔悟して、その道を間違わなかったのだろう。それゆえに、キリストにベルゼブブが付いていてもそれは悪霊とは言われなかった。ベルゼブブやカットとマラワも悪戯こそするが良心のある神に属すことができる者だったのである。しかして、これは時による規定に過ぎないかもしれない。しかし、この問題を解決する法を立てるものは大儀なのである。この点で一番に注意すべきは女であるが、今は女に関する信仰をまだ見いだせていない。というのは全体の話で、一部ではそれを信仰へとつなぐことができるものもいる。慎重になるべきではあるが、時が来ればさばきは必ず起こるのである。もう一つ、ここで現れるマラワであるが、アフリカでは蜘蛛に関する神話もある。

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二匹の鰐

昔あるところに、ウェブブ、ナガリという、二匹の鰐が棲んでいた。ウェブブは、ろくろく口もきけず、また大きな声も、出なかった。けれどナガリは、首を長くしては、ちょっと口笛を吹くような格好で、大変良い声を出せた。友達が欲しくなると、ナガリはその首を延ばして、「う、う、う、う」と声を立てた。そうすると、そのよい音にひきつけられて、大勢の女たちは集まってくるのであった。ナガリには、これが愉快でならないのであった。ナガリは、さも嬉しそうに、歌い続けていた。女たちは、死んでいるのか眠っているのかわからないほどに、身動きしないで、一生懸命それに聞き惚れていた。かわいそうにウェブブの所には誰も来ません。ウェブブは、寂しくてならないので、「私はどうすればナガリのように、大勢の女たちを集めることができるだろうか。私には、ナガリのような、よい声はない。どうしたものか」とこんなことを考えていた。そのとき、妙案が胸に浮かんだ。それは細長い中空の竹を手ごろの長さに切り取って、それに沢山の穴をあけた。これが横笛と言う物の生まれた始めだった。それからウェブブは、海辺にあるチオバという檞(かしわ)の樹の上に、高い台をこしらえた。そしてその上に座って、笛を吹き始めた。女たちは、辛抱強くナガリの周囲に座り込んだまま、一心になってその妙音に耳を傾けていた。ナガリは、さも得意そうに「う、う、う」と相変わらず一本調子の声を続けていた。すると突然、代の上から、ウェブブの鳴らす笛の妙音が、響いてきた。静かな空気を伝ってくるその高い音は、なんともたとえようもなかった。ナガリの声に耳を傾けていた女たちは、「はてな」と思わず言った。ナガリは相変わらず歌い続けている。「まあ、どこともなく響いてくる、あの不思議な音の善い事。お前さんのなんか聞かれやしないよ」と女たちは叫んだ。これを聞いて、ナガリは驚きのあまり、飛び上がった。突然、一人の女は立ち上がって、「時期に、帰ってきますよ」と言いながら、笛の音のほうへと足を向けた。それっきり、その女は帰って来なかった。しばらくすると、また一人の女は立ち上がった。「皆さんちょっと待っていてくださいね。すぐに、帰ってまいりますから」と挨拶をして、その女は、前と同じように笛の音のほうへと、足を向けた。しかし、やはり帰ってこない。こうして、女たちは一人、また一人と笛の音のほうへと、足を向けた。が、やはり帰っては来なかった。とうとう、またナガリ一人になった。
ウェブブは、チオバ樹の上の台に座り込んだまま、一生懸命になって、笛を吹いていた。すると、一人また一人と女たちが現れてきた。ウェブブが座っている台は大変弱いのだった。もし、沢山の女たちが一度に登ってきたら、たちまち壊れるに違いなかった。ウェブブは、非常に心配して、「木に登ってきてはいけません。この台は危険です。どうか、その下にいてください。」と重ね重ね注意をした。
けれど、妙音に心を奪われた女たちは、もう我慢が出来なくなった。あの笛の傍まで行きたいと、女たちは、我勝ちに木に登り始めた。そして見る間にあのか弱い台の上は、女たちでいっぱいになった。するとたちまち、大きな音がして、ウェブブも、女たちも、チオバ樹の間をかすめながら、ものすごい勢いで地面に落ちた。それ以来今日まで、チオバ樹と言う物は、すべてその幹が地の方へと傾いています。

解釈

ウェブブとナガリ、ナガリは初めから女を魅了する声があり、ウェブブは知恵で音色を得た。ここには努力の限界があるようにも見受けられる。すなわち、ナガリは自然に得た力で沢山の女を魅了したが、ウェブブは知恵でそれを行ったが、ウェブブはそれゆえに多くの女を得てはならなかった。すなわち、多すぎたために台が落ちてしまったのだ。そしてそのためにチオバ樹という木は幹が地のほうに傾いているという。これはしかし、チオバ樹が高くなりすぎたゆえにウェブブによって傾いたということかもしれない。

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海亀に甲羅ができた由来

昔、海亀とカンガルーとは、仲の良い友達であった。ある日、二人は、ふと道端で出会った。海亀は、腹が減ってたまらなかった。それで、カンガルーを誘って、海岸に出て、海伝いに言って、大角鳥の畑に忍び込もうと思った。そこには、バナナや砂糖黍などが沢山あった。二人は、やがて無事にその畑に忍び入って、とあるバナナの樹の側に来た。カンガルーはこういうところは得意で、見る間にその大きい後脚の力ではねて、樹に登り、上から旨そうなバナナを落としてやった。こうして高い砂糖黍にも、オラブ樹にも登った。そしてしばらくの間に、二人のお仲は、これらのご馳走で破れるほどになった。
二人が、こうして夢中になって食べているときは、ちょうど鳥どもが畑で耕している最中であった。一仕事終えると、鳥どもは、沢山作ってある芋を掘り上げて、それを担いで帰って来た。家に帰りつくと、芋の皮をむいて、細かく刻んだのを、鍋に入れて煮る支度をするなど、なかなか忙しい話です。あいにく味をつける海水がなくなっていたので、ビナマという大角鳥が、「誰か海に行って、海水を汲んできてくれないか」と言った。けれども誰もこの言いつけに従う者はなかった。皆、一人で海辺に行くのが恐ろしくてならなかったので、口実をつくっていかないのであった。遂に鶺鴒(せきれい)がしびれをきらして、立ち上がって家の中へ駆け込んだと思うと、すぐに出立の身支度をして出てきた。その姿を見れば、胸当てを首から下げ、首の周囲に羽を縛り付け、手には槍を持った扮装だった。やがて鶺鴒は出て行った。道すがらも敵はいないかと道の両側を交互に飛び交いながら歩いて行った。まもなく、ビナマの畑に来た。前後を忘れて食べるに余念がなかった海亀とカンガルーの珍客は、突然鶺鴒に見つけられると、びっくり仰天してしまった。しかし、海亀は表だけでは平気そうに、「こんにちは、よくお精がが出ますね。あなたのご主人様がお許しなさいましたから、折角バナナのご馳走を頂戴しているところですよ」と言った。鶺鴒は心の中では「嘘つきやがるな」と思ったが、そんなことは顔にも出さないで、塩水を汲み取ると、別の道を通って帰って来た。息せき切って駆け込んできた鶺鴒は、大勢の鳥どもの顔を見ると、「おい、大変だ。海亀の奴とそれからカンガルーの奴が今、畑を荒らしている」と告げた。これを聞くと、鳥どもはいっせいに槍を持って立って、畑の周囲を取り巻いた。カンガルーは、早くもそれに気付くと、大きな後脚と尻尾とで、跳ね飛んで行ってしまった。けれどもそれができない海亀は、仕方なくそばの芋畑に潜り込んで、その葉陰にうずくまった。鳥どもは。それと知って隈なく捜し歩いた末、ついに海亀を引きずりだした。海亀は真っ青になって、「どうぞお許しください。あのカンガルーめが、嫌がる私をこんなところに引き込んだのです。このようにあなた方の樹を荒らしたのも、まったくあいつの仕業です。」と、泣かんばかりに申し訳をしていた。鳥どもは、そんな泣き口上には耳も貸さず、やがて、棒に縛り付けた海亀は、ビナマの家に連れて来られてその夜は逃げられないように、高い棚の上にあげて置いた。
明くる日は、海亀を殺して、祝いの酒盛りがあることになっていた。夜が明けると鳥どもは、ビナマの命令で食べ物を畑に鳥に言った。家には見張りの子供たちが残っているばかりだった。これを見た海亀は、内心ひそかに喜んで、「お坊ちゃん、お利口ね。私の縄を解いてくださいな。ね、一緒に遊びましょう」と言って子供を呼び寄せた。
無邪気な子供たちは、何も知らないで、喜んで縄を解いてやった。海亀はやっとの思いで、棚から転がり落ちた。そして長い間縛られていたため、まるで石のように凝っている体を大きく背伸びしながら、「坊ちゃん方は、お金持ちですから、沢山飾り物をお持ちでしょう。いいのばかり籠に入れて来て、見せて頂戴ね」と言いました。
子供たちは、嬉しそうにビナマの宝物を持ち出して来た。美しい貝殻の首飾りや、見事な貝殻の腕環二つ、木の椀などが、光り輝いている。海亀は、さも珍しいような風をして、その長い首飾りをぐるぐると首に巻き付け、腕に腕環をはめ、椀は背に括り付けた。そして、「御覧、綺麗でしょう。今から私が、この姿で少し走って見せますから、見ていてくださいな」と言った。
海亀は少しばかり歩むと、子供たちの合図でまた後戻りした。それから、みなは木陰に入って休んだ。やがて、再び立ち上がった海亀は、その着飾ったからだを無様な恰好で歩いて見せて、わざと子供たちを笑わせた。そしてまた子供たちの所に戻ってきたけれども、今度は一緒に休まなかった。というのは、突然大人の声が聞こえて来たからであった。じっと耳をすまして聞いていた海亀は、鳥たちが帰ってくるのを見ると、急いで海中に逃げ込んだ。子供たちはこれを見ると大声で、海亀が逃げた、と叫んだ。
けたたましい子供たちの叫び声を聞きつけて、ビナマも鳥たちも、持っていた芋などは投げ捨てて、そのあとを追っかけた。鳥どもが海辺に馳せつけた頃には、もう海亀は、ぐんぐんと海中を潜って行くところであった。鳥どもは口惜しまぎれに、「現れろ、首を出せ」と怒鳴りたてた。すると海亀は、ポカンと首を水面に出した。怒った鳥どもは、雨のように大石を投げつけた。その一つは、見事海亀がはめていた左の腕環に命中して、うち砕いてしまった。驚いた海亀は、再びその姿を隠してしまった。鳥どもは残念そうに「現れろ、首を出せ」とまた怒鳴りたてた。海亀はまた水面に現れた。そのとき鳥どもは、あたりの大きい石ばかりを選んでそれを投げつけた。すると医師は見事海亀の背の椀にあたった。けれどもそれは、破れもしなければ、砕けもしなかった。海亀は、そのまま急いで沖合遥かに泳ぎ去った。それからと言う物は、海亀は鳥どもの前に姿を現したことはなかったということです。そしてその時からずっと今日まで、海亀の甲羅はビナマの家から盗んだ椀だと言い伝えられている。

解釈

ブラジルで猿が食われそうになり、子供を利用して逃げようとした話があるが、この話もこの手の話と似ているように思う。ここでは、海亀で、カンガルーと仲が良かったという。カンガルーというと、オーストラリアでは、火星の原因となった女の医者の話がある。これはさておいても亀はずるがしこいというのが多くの神話で共通している。ここでは鳥の畑にカンガルーと海亀が入り込んで荒らしたとあるが、この畑はどこにあったというのだろうか。これはエリジオンの野のことなのか。それともジャムシードの囲繞地なのだろうか。また、北アメリカのような、動物たちにとっては険しい場所だったのだろうか。と言う点が一つ。海亀の装飾について、腕環が一つ壊れたとあり、また、美しい貝殻の首飾りは壊れたとは書いていない。ここには貝殻と海亀の関係があるだろうか。

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天国を去った人

ある村に、貝殻銭の飾りを欲しがっている人たちがいた。ある日、その人たちが、お互いに相談しあった末、貝殻銭と交換するため、檳榔子を持って旅に上がった。
ほどなく貝殻銭のあるというところに来た。その村と言うのは、小山の奥の方にあるので、海岸からはどうしても一日はかかった。それで船には一人の番人を残して、人々はその小山を登って行った。暫くたって、椰子製の壺を抱えた一人の子供が、お料理用の塩水を汲むために、船の傍らに下りて来た。これを見て船の番人は、「お坊ちゃん。貝殻銭のある家はご存じではないかい?」と尋ねた。
子供は、「家のお父さんの所には沢山あります。その檳榔子となら、お父さんは喜んでお換えになります。」と教えてくれた。
いままで一人居残っていた番人は、これを聞くと小躍りして、子供の後についてその家に行った。なるほどその子供のお父さんは沢山な貝殻銭を持っていたので、檳榔子を見せると、喜んで換えてくれた。こうして糸につないだ見事な貝殻銭を手に入れた番人は、大事そうにそれを水瓶の中に納めると、ほくそ笑みながら、もとの船の所へと急いで来た。そして何食わぬ顔をして、皆の帰りを待ち受けていました。程なく人々も、銘々貝殻銭を携えて帰って来た。こうして愉快そうな笑い声の内に、賑やかな船出の旅が始まった。けれども途中いつとなく、めいめい自分の貝殻銭の長さを誇っているうちに、ついに口論が始まった。そこで、なるべく早くどこかに上陸して、一つそれを比べて見ようということになった。
そして着いた所は、ある淋しい海岸であった。都合の良いことにすぐ近くに一本の栄蘭(えらん)の木があった。人々は、各々自分のをその枝にぶら下げて、どれが一番長くて見事であるかを見比べながら、「お前のは赤いな」「おまえのは長いぞ」などと、いろいろ評しあっていた。そのうちにいよいよ、さっきから一人黙って後ろの方で見ていた、あの番人の男の順番となった。つかつかと進み出たその男は木の枝に下げるどころではなく、その頂上に掛けた。その見事なことと言ったら、下の方はだらだらと地面を這って、まだ瓶の中には残っているくらいであった。いままであれほど口喧しく評し合っていた人々も、はたと口を噤んでしまった。ある人は、羨ましそうに眺めている。そうかと思えば、悲しそうな顔をしている人もある。腹立たしく感じた人もあっただろう。けれども、誰もみな欲しそうにしていた。欲しいという点ではみな同じであった。羨ましさの余り腹立たしく感じた人々は、この男をこの島に置き去りにしようと考えた。
嫌がる人を無理に突き放して、憎らしい言葉を残しながら、出発した。取り残された男は、貝殻銭を抱いて、いろいろと逃れる工夫を考えたが、これという妙案は浮かばなかった。そのうちにふと肩に担いでいた石の瓢箪(ひょうたん)に気が付いたので、これに打ち乗って、故郷目指して出発した。けれども帆も無ければ櫂もない身の上は、ただ運命を風に任せて、漂流して行くよりほかはなかった。カリワブ風に吹かれては西の方へ、ラバタラ風に吹かれては東の方へと、こうした漂流の旅を続けて遂に着いた所は、とある山の麓であった。その山の後ろから星が昇るのであった。
やがて夜となった。マガマイア星は、いま海上を勢いよく昇ろうとしていた。これを見て男は、「私も一緒に連れて昇ってくれ」と呼びかけた。するとマガマイア星は、「もう少しお待ちなさい。私の友達のデボロイア星がじきに参ります」と答えた。間もなく、デボロイア星は来た。男は「私も一緒に連れて昇ってくれ」と呼び掛けた。デボロイア星は、マガマイア星と同じように、「もう少しお待ちなさい。暁の明星が、じきに参ります。」と答えた。
どの星も願いを聞き届けてくれなかったので、男は、物悲しくなって、泣いていた。すると誰か、自分の名前を呼ぶものがいた。それはあの暁の明星であった。暁の明星は男を連れて、天空遥かに舞い上がった。その中に沢山な人の集まりが目に着いたので、男は星から手を放して、その人々の前に降りて来た。そこは天国だったのである。突然のことに天国の人達は、湧き出て来たようなこの男を、じろじろ眺めながら驚きの目を見張っていた。丁度この群衆の中に、天女のような乙女がいた。乙女は、男の姿を一目見るなりたいそう心を奪われて、遂に男と結婚した。楽しい天国の生活に、夢のように暮らしていた男は、下界のことなどはもうすっかり忘れていた。二人の間には、程なく男の子が生まれた。そのうちに成長して、立派な若者となった。ある日、この若者が、どっさり投げ槍を抱えて来て、お父さんに研いでほしいと言った。遥か下を見渡せば、下界に生えている椰子が手に取るように見えていた。若者は、その椰子の実目掛けては、槍を投げつけて遊んでいるのでした。
こうして研いだ槍すらもすっかり使ってしまったので、またお父さんの所へやって来た。お父さんは、不審そうな顔つきで、「また槍を作ってくれって、この前作ってあげたのは、どうしたのだ」と尋ねた。
こういいながら何気なく見下ろすと、下の方には、今まで忘れていた懐かしい自分の村の椰子の樹が見えた。それを見ると、急に帰りたい一念が堪らなく心に起こって来て、がっかりした。
そして妻に向かって、「食事の用意をしてもらいたい」と言った。食事が終わると何を思ったか、栄蘭で作った長い縄を取り出して、それに貝殻銭を縛り付けた。けれども大きくて赤い、一番見事な円い貝殻銭は、ちゃんと天国の地上にまいた後、それは納めて置くように命じた。下界の貝殻銭が青くて小さいのに、天上のが大変美しいというのは、このためであった。
こうした縄が見事に出来上がると、その一方の端には環を作って、お父さんはその上に座ると、「これから下界に下りて来ようと思う。だからこの縄の端は木に縛り付けて、夜まで下ろし続けてくれ。だが、夜明けまでには、もう一重だけ木に巻き付けておくのだ。縄が緩めば、そのとき私は下界に着いたのだ」といろいろ子供に言いつけた。
いよいよお父さんは、下界へと降り始めた。そして一晩中風に吹かれて、天地の間をふらふらしながら、一本の縄を命の綱としておりて行った。
若者は、言いつけの通り、夜明けまでにはもう一重木に巻き付けて、なおも縄を下ろし続けた。遂にお父さんも、自分の家の椰子の樹の上に着いたので縄は緩んで地上に落ちた。
こうしてお父さんが、高い椰子の樹の上に座っていると、一人の乙女が走って来て、その椰子の樹を見つめていた。それは、偶然にもこの人が下界にいた時にできた自分の子であった。乙女は、お父さんが居なくなってから、椰子と言う物は見るだけで、その実を食べてはいけないと、聞かされていた。というのは、お母さんはお父さんが死んだものと思って、お父さんの椰子の実は、死んだお父さんの食べ物だとして、食べることを禁じていたからであった。やがて乙女は、葉の間に人の姿を見つけて、それをじろじろと見ていた。そして、それがお父さんだと知ると、乙女は走って帰って来て、「お母さん、お父さんがあの椰子の樹の上にいる」とお母さんに知らせた。お母さんはこれを聞いて、「嘘をお言い。そんなことがあるものですか。お父さんはとっくの昔にお亡くなりになったんだよ。お母さんはこの長い間嘆いているではないですか。それは、きっとほかの人ですよ」と言って頭から信じなかった。
しかし乙女に引きずられるようにして、樹の下へ来てみると、それはまごうかたなくお父さんであった。お母さんは飛び立たんばかりに喜びながら、双の手を差し伸べて、お父さんを迎えた。それから妻子に連れられて、懐かしい我が家へと帰って来た。お母さんは意外なこの珍客を接待しようと、畑から食べ物を取って来て、心ばかりのお料理を作った。お父さんは久しぶりのお嫁さんの手料理に、さも旨そうに舌鼓を打ちながら、食べていた。
こうして元気も回復し落ち着くと、自分を置き去りにして行ったあの憎い友達どものことが、頭に浮かんできた。が憎さなどは顔にも出さずに、愛嬌を振りまきながら、仲間の所へやって来た。そして大勢の友達どもを誘って、酒宴に招待することにした。山のように皿に盛り上げた芋のお料理、豚肉のご馳走が整うと、客たちは、どやどやと村の集会所の宴席に着いた。けれども肝心なこの人ばかりは、中に入らなかった。というのは、計略に乗せてかたき討ちをしようと思ったからであった。それで厳重に家の戸を閉め切ってしまうと、家の四隅から火を付けた。たちまち家の中は恐ろしい炎と渦巻く煙とに包まれていた。客たちは、逃げ道を求めようと、狂乱のようになって右往左往していた。いままでの歓楽場は、一瞬の間に修羅場となってしまった。しばらくの間に火が集合会所を舐め倒してしまう頃には、あの苦しそうな叫び声も、鎮まってしまった。すると、その酒宴場の軒に苦しそうにすがりついていた黒焦げの死体どもは見る間に「飛行の狐」に変わった。それは今でも苦しそうな魂の叫びをあげながら、高山地方を飛んでいるのである。

解釈

この話はクロスロードを思い起こさせる。これは檳榔子と貝殻銭を換えるということがどのような意味を持っていたのかということを理解しなければわからないかもしれない。ドイツ語では買う「kaufen」売る「verkaufen」と言う。「ver」がつまらない現象を表すという。買うことが売ることを引き起こしたからか。理由はわからないがこの交換は何か重要なものを換えているように思う。一番立派な貝殻銭を手に入れた男は、星に頼んで一緒に天に昇っている。デボロイア星とマガマイア星はどの星を示しているのか。最終的に暁の明星によって天国へ行っている。その後子供が下界の椰子へ投げ槍を投げているのを見て、下界に返っている。ここで男は一番良い貝殻銭を天国の地上にまいたとある。ここには富を捨てるべきことが書いているようにも思う。このため天上の貝殻銭は地上のより美しいというそうだ。彼は地上で妻と娘と再会し、村の人たちに復讐をした。それは集会場に火を付けて人々を焼き殺すことだった。その焼死体が「飛行の狐」となって、高山地方を飛んでいるという。ここで狐が出て来る点は非常に重要である。これはアルマロスに関わることであると考えられる。また、北アメリカでは銀狐が世界を創造したというが、こちらの狐はまた異なるのだろうか。人々から狐が生まれたということなのか、もしくは先に狐が居て人となったのか不明ではあるが一つの象徴性としては多くを教えている。

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善人ダベダベ

南部ワミラに続く山地で起こった、ボウ人の話。
ある人が一匹の豚を持っていた。ある日それは、主人の目を盗んで、家を逃げ出して藪の中に子を産み落とした。その中の五匹は母親と同じく豚であったが、六番目のは男の子だった。親豚はこの男の子が可愛くて可愛くて仕方がなかった。毎日親豚が藪の中に食べ物を漁りに出ると、六匹は嬉しそうにそのあとをついて行った。そして、いつとなしに藪の中に沢山の足跡が付いたので、遂にボウ人にその隠れ場所を発見されてしまった。人々は、大きな豚網を持って、捕えに行った。そのとき親豚の飼い主は多くの足跡の中に、人間の子供らしいのを見つけて、「ほかの子豚はお前方にあげようが、この男の子らしいのは自分のものにするぞ」と言った。それからこの人は、木に登って豚が出てくるのを、今かと眺めていた。すると、木の上から、「来るぞ、褐色の奴は俺のだ。早く網を張ってくれ」とささやくように知らせた。
五匹の子豚は、訳もなく網にかかった。しかし肝心の男の子は影も形も見えなかった。実は、親豚はその危険を知って、隠してしまったのであった。豚の飼主は、残念そうに、「これからあの褐色の男の子を探すから、一つ加勢してくれ」と言った。人々は、手を分けて捜し歩いた末に、しばらく草陰に潜んでいたのを捕まえることができた。飼主は嬉しそうに「これは俺のだ」と言って、それを小脇に抱えながら帰って行った。一人取り残された親豚も、仕方なくその跡をつけて村へと行った。そして、村に着いてからも藪の中にいた時のように、大変可愛がっていた。
子供も大分大きくなった。ある日、食べ物を求める母親の哀れな叫び声が聞こえて来た。その声を聞くと、親思いの若者は、母親のため畑を作って、穀物を自分で作ってみようと思った。それで呼び集めた村人の手助けで、籬(まがき)を回らした畑を作り、野菜などの食料を植え付けた。この若者の名前をダベダベという。そのうちに仕事も終わりになったので、働いていた飼主は一足先に返って、加勢してくれた人々に、ご馳走をする準備に取り掛かった。しかもその飼主は、ダベダベの親豚を殺して、その肉と芋との料理を作ったのであった。やがて、畑で働いていた人々も、帰って来たので、飼主は、「ご苦労様、粗末な手料理ですが、遠慮なく召し上がってください。」と言いながら、料理を木の葉に盛ってめいめいの前に置いた。すると異様な目つきで眺めていたダベダベは「その鍋の中にあるのは何の肉ですか」と尋ねた。飼主は「これは豚の肉だ」と答えた。ダベダベはなんだか気が揉めるようになって、「もしや、私のお母さんを殺したのではないですか」と尋ねた。すると飼主は「いかにも」と答えた。
これを聞くとダベダベは、家の奥から敷物を持ち出して来て、皆の前にそれを拡げた。そして、「皆さん。肉を食べたら、骨だけは捨てないで、この敷物の上に入れてください」と言った。人々は、そのご馳走を食べながら、骨はみなその敷物の中に入れた。食事が終わるとダベダベは、それを丸めて肩に担いで、「皆さん、皆さんに加勢を頼んで畑を作ったのは何のためでしょう。みなお母さんに十分な食べ物を食べさせてあげたいためばかりだった。しかも、そのお母さんは殺されて、あなた方のご馳走になったのです。私の心尽くしも、今となっては、水の泡同様に消え失せました。もう、こんなところに用はありません。では、皆さん、ご機嫌よう」と悲しそうな声で別れを告げた。
こうしてダベダベは村を出て、旅に上った。そしてペウブアと言うところに来た。母を亡くした落胆と、旅の疲れとでがっかりしたダベダベは、そこに腰を下ろした。振り返ってみると、思い出の悲しい村はやはり見えている。はっと思い立ち上がったダベダベは、勇を鼓して再び歩みながら、レボレボというところに来た。後を振り返ってみると、やはり遠くに村は見えていた。思い出に耐えかねたダベダベは、休みもしないでそのまま歩み続けて、ドウラという所に着いた。ここでも、あの悲しみの村は、やはり見えた。ダベダベは、歩み続けてクァマナという所に来た。あの悲しいお母さんの村も、ここでは見えなかった。ダベダベは、ほっとして、「そうだ、私はここで暮らそう」と独り心の中で考えた。
けれどもクァマナの人々は、全身傷だらけのみすぼらしい乞食姿を見て、どうしても村へは入れてくれなかった。雨は、哀れなダベダベにも容赦なく降り続けた。全身濡れてしまったダベダベは、仕方なく洞穴の中に這い込んだ。それから数日の後、誰か通ればいいと思い待ち受けていると、一人の子供が前を通りかかったので、これ幸いと呼び入れた。子供は、親切にも一緒にその穴の中で生活しながら、食事の用意、傷の手当といろいろ面倒を見てやった。こうした子供の介抱で、程なく傷も癒え、ダベダベは、また元の元気な体となった。
ある日、いつものように二人が穴の中に座っていると、太鼓の音が村の方から聞こえて来た。耳を傾けていたダベダベは「おかしいぞ、太鼓の音が聞こえるようだ。村では今日は何かあるとみえる」と子供に尋ねた。一緒に聞いていた子供は「あれはクァマナの村人たちが、酒宴の前祝いに踊りまわっているのです」と答えた。ダベダベは訝しそうに「なんの酒宴なのか」と聞いた。子供は「ワラガという、人肉料理の酒宴です」と子供は答えた。
これを聞いてはっと思って立ち上がったダベダベは、袋を子供に預けて、急いで太鼓の音が響いて来る村へやって来た。太鼓の音、人々の歌う声、村では今煮え返るような騒ぎだった。ダベダベはそんなものには眼もくれないで、血眼になって酒宴の司宰者(しさいしゃ)を探し回ったが、なかなか見当たらなかった。そのうちにやっと人込みの中に、酒宴の司宰者の姿が見つかった。やれ嬉しやと走り寄ったダベダベは、その傍に並べた長い棒の上に、何か縛りつけてあるのが目に止まって、「はて、奇妙な形をしたものだ。この上に縛り付けているのはいったい何ですか」と司宰者に尋ねた。
司宰者は、どこの乞食坊主かと言わぬばかりの顔をして、「これは人間さ。酒宴の料理にするのだ」と無雑作に答えた。道理で、先から胡散臭い有様だと思ったダベダベは、手を揉みながら、「それでは、お願いがあります。なんと聞いてもらえますまいか。それはこの人間たちです。これを食べないでください。その代わり、私がよい物を差し上げましょう。まあ、そう急がなくとも、ちょっと待ってください。すぐそこの皮まで行ってまいりますから」と言って繰り返し頼んだ。
それから洞穴へ急ぎ戻って来たダベダベは、あの袋を担ぎあげるが早いか、どんどんと河のほとりに走って行った。そして河のほとりに立って、袋から取り出したものは、大事にしていたお母さんの骨であった。ダベダベは、袋の中からそれを鷲掴みにして取り出すと、そばの一つの石目掛けて投げつけた。するとまるで天から舞い下がってきたか、地からでも湧き出たように、それらの骨は、みな人間の姿と早変わりして、さあどうぞご用命と言わぬばかりに、頭を下げてダベダベの前に並んだ。ダベダベは、こうなることを待ち受けていたように、「これから森に行って、沢山棒切れを伐ってまいれ」と言いつけた。かしこまりましたと命を奉じた人間どもは、我勝に森の陰さして姿を消してしまったと思うと、やがて束にした棒切れを担いで帰って来た。けれどもダベダベは、さも不平そうに、「これは少ない。もう一度取ってまいれ」と言って、つぶやいた。人間どもは、これを聞くと一散に駆け出して行って、しばらく後にはまた棒切れの束を担いで汗を流しながら帰って来た。が、今度もまた不足のために、主人の不機嫌を買ったので、とうとう三度まで走って行って、やっと三度目で、思うほどの棒切れが集まった。
さて、ダベダベは、これからどうするつもりなのでしょう。みなさい、ダベダベは、まだ袋の中に残っていたお母さんの骨を、残らず取り出したのです。そして、それらを川岸の石の上に叩きつけると、今度は沢山の豚に早変わりした。これでよいと思ったダベダベは、急ごしらえの豚を棒切れに縛り付けるように、俄仕立の手下どもに言いつけて、自分は韋駄天走りに飛び続けて、酒宴の司宰者の所に駆け付けた。そして「失礼ですが、私の羊角蕉一つ、椰子油で料理して召し上がってください。今時期に手下どもに持たせて、一緒にまいりますから」と息遣い荒く言った。
こうして、ダベダベは、踵を返すが早いか、一散にまた元の川の所へと走って来た。やがてダベダベを先頭として、二人ずつで豚を担いだ手下どもの一行は、列を作り、酒宴場へ乗り込んだ。いままで底抜けの騒ぎをしていた村人たちも、次から次へと現れて来る豚、人の多いのを見て、ただ眺めていた。行列全部が酒宴場に着くと、ダベダベは、一段と声を張り上げてて手下どもに、「ご苦労、さあみなその荷物はここに下ろせ」と言いつけた。それから司宰者に向かって、「御覧の通り、豚は、たんと。これではご不足はございますまい。その代わり、そこの棒に縛り付けてある人たちは助けてください」と言った。司宰者と言っても、大変豚が好きですから、否応とも言わないで、快く縛られている人たちを解いてやった。今少しの所で熱い思いをしながら、煮て食べられるはずだった人たちは、こうして危うく命が助かったのであった。髪を美しくし、貝殻や羽を盛装(せいそう)した村人たちは、「さあ、豚のご馳走だ」と口々に言いながら、豚のお料理を食べた。どの顔にも喜びが溢れていた。ダベダベは、こうして人間たちを救った。もしそうでなかったなら、本当にパプア人はみな、棒に縛られて敵の腹の肥やしになっていたかもしれません。このことがあってから今まで、酒宴があるごとに、豚は人間の身代わりとなって殺されます。それでボウ地方はもとより、クァマナ地方で沢山な豚を飼っているのである。

解釈

似た話に鳥の王が鳥を人に変えた話があるが、この話では豚である。このような擬人的な存在、または半人半獣的な存在が、人やその生き物に変化するというのは、そのものが第五の日に神の秘密を知ってしまった、アクロニムという性質を持っているからと考えられる。ここでは、動物が人となり、それが人間に受け入れられるまでの話としての贖いなのかもしれないが、それには相応の理由があれば、人と馴染むことで受け入れられるということかもしれない。豚が主人公であるという点では、インドの韋駄天なども関係があるかもしれない。また、メフヤエルとも関係があるかもしれない。

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踊り好きのお婆さん

ある村に、一人の女とその子供が住んでいた。その子供には、盲目のお婆さんがいた。お婆さんの毎日の仕事は、お料理に使う塩水を海辺から汲んでくることであった。この仕事が満足に務まらないと女の起源は大変悪かった。そこで、お婆さんは曲がった腰で水瓶を提げながら、毎日この仕事だけは決して欠かさなかった。海辺までは一本道で盲目でも道に迷うことはなく、どんな日でもお婆さんは、一本の杖を道案内として通うのであった。まだ目が明いているときでも、山奥育ちで、海を拝むことはできなかった。こうして、波とはどういうものかも見ずして盲目となった。ある日いつものように、お婆さんは一本の杖を頼りにして海辺にやって来た。大洋の波は勢いよく押し寄せ大きな音を立てて珊瑚礁に打ち寄せていた。けれど波を見たことのないお婆さんはその音を踊りの太鼓の音と思った。お婆さんは心が浮かれて、踊り狂ってしまった。こうして踊り狂った末我に返ったお婆さんは自分の仕事を思い出して、塩水を汲んで、いつになく遅く帰って来た。常からお婆さんをいたわらない女は帰りが遅いので、腹を立てていた。お婆さんが転げこんでくると、叱り飛ばした。しかし、お婆さんは唖のように黙ったままその理由は一言も言わなかった。頭の中では先ほどの面白かった太鼓の音が耳に残っていて、もう一度海辺に行って、聞きたくてたまらなかったからである。
明けの日勇み立ったお婆さんは弱い足を急がせて海へやって来た。昨日の面白さを味を占めたお婆さんの耳にはそれが太鼓の音にしか聞こえなかった。再び愉快な気持ちになったお婆さんは踊り始め、帰りは昨日よりも遅くなった。帰りの遅いのに女はどれほど起こったことであろうか。しかし、お婆さんはその理由を言わなかった。そこで明くる日は見張りをつけてやることにした。
翌日、お婆さんが出て行くころ、女はその子供を呼び寄せて「お婆さんはこの頃どうかしている。お前は後をつけてその有様を見届けてくれ」と言いつけた。そうとは知らずお婆さんは海辺へやって来た。つけて来た子供は遠く離れたところに座って眺めていた。すると、お婆さんは夢中になって、杖も投げ捨てて、波の音に合わせて踊り始めた。この様子を見た子供は、急いでお母さんのところへ戻り、お婆さんが海辺で波の音に合わせて踊っていると告げた。これを聞くと女はお婆さんを嘲るように笑った。やがてお婆さんは何食わぬ顔をして戻って来た。女は冗談半分に「波の音の太鼓はさぞ良い音がするでしょうね」と冷やかしながら、子供と一緒にどっと笑った。この嘲笑を聞くとお婆さんは仰天したと思うと、そのまま大地に倒れてしまった。そして可哀そうにそのまま死んでしまった。こうして、踊り狂ったお婆さんは盲目であったため、楽しい目にあい、悲しみの果ては自分の一命も失うことになった。
波は今でも相変わらず珊瑚礁の崖にあたりながら、砕けていて、土人はこの音を聞くと、これは盲目お婆さんの太鼓の音だ、と言っている。

解釈

この話は伝説と言うよりも、迷信のようなものだろう。しかしどうして、このような話が生まれたのか定かではない。海の力を大切にする土人の崇拝からだろうか。

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森の子供

昔、ガラワダという女がいた。ある日、養母と一緒に森に無花果(いちじく)取りに出掛けた。やがてとある一本の樹を見つけ出して、ガラワダはそれに登った。が、おいしそうな無花果は自分で食べて、下に待っている養母には、まだ熟していない青いのばかり落としてやった。その養母というのは、魔法使いであったから、これを見ると怒るどころか、ガラワダをどうにか懲らしめてやろうと、思った。それで、もうたくさん食べたから降りておいで、とガラワダを呼んだ。魔法使いの悪だくみがあるとは知らずにガラワダは降りて来た。丁度叉枝のあるところまで来たときを見計らって、魔法をかけると、両方の枝はその娘を間に挟み込んでしまった。この苦しそうな有様を見て養母は、さも気持ちよさそうな笑いを浮かべながら、さっさと村に帰って行った。
一人で苦しい破目になったガラワダは、次第に小さくなって行く養母の後ろ姿を見て、大声建てて泣き出した。それから数日は、お母さんが来て下ろしてくれはしないかと、苦しみながら首を長くして待っていた。けれどもそのような足音は聞こえなかった。助けの望みがなくなった苦しい樹の上の生活を幾日も続けているうちにガラワダには一人の子供が生まれた。ある日、その子供が木から落ちたので、下の木の根元で泣き叫んでいた。上でこれを見ている母親は、気が気でならなかったが枝の間に挟まれたまま、身動きもならない身の上でどうすることもできなかった。母親はみすみす可愛い我が子の死ぬのを、眺めているより他はなかった。けれども幸いにも、子供の周囲には、沢山な生姜が生えて来たので、手近にある柔らかい新芽の汁を吸いながら、日増しに成長していった。新しい生姜は、それからそれへと生えた。
ある日、何気なく木の上を見上げると、以外にも木の叉の間に挟まったお母さんの姿が、目についた。それからと言う物は何一つ楽しみといってはないこの森にも、木の上と下との間には親子同士の親しい話が続いた。いままで苦しい樹の上の生活を送って来た女には、こうした楽しみが恵まれたのだった。漸く(ようやく)物心つくようになった子供は、暇さえあれば、苺やいろいろな果物を取って来て、お母さんを慰めては、一生懸命孝行を尽くしていた。淋しい森の奥に生まれ、野生の生姜を食べて成長してきた子供でも腕白盛りとなれば、やはり遊び相手が欲しくてたまらないようになった。それである日、「お母さん、私の素性を明かしてください。私は人に会ったら、それを歌で歌い、私の素性を知らせてやりたいものと思います。」とお母さんに言った。これを聞くとお母さんも、どうせこの子供も、こんな森の中ばかりにはくすぶらないで、出て行くに違いないと思って、次のような呪文を教えてやった。

「皆さん、聞いてください
ガラワダ、私のお母さん
生れ落ちると、生姜を食べ
生姜食べては、成長し
こうして私は逢いに来た」

そしてお母さんは「さあ、この歌を歌っておやりなさい」と言った。
子供は、まるで天国にでも昇るような気持ちで、小さい胸を轟かせながら、走って出て行った。けれどあまり有頂天になって喜んでいたので、肝心な歌を忘れてしまって、急いで帰って来た。子供の姿を名残惜しそうに見送って、寂しい森の樹の上でがっかりとしていた母親は、思いがけなくもすぐに帰って来た子供の姿を見て、身動きもできない体を揺すりながら喜んだ。というのは、やはり母親が恋しくて、子供は帰って来たものと思ったからであった。ニコニコしながら帰って来た子供は、一向それらしい有様もしないで、木の下に来ると元気に、「お母さん。歌を忘れてしまった。もう一度歌ってくださいね」と叫んだ。で、ガラワダは、また呪文を唱えて聞かせた。

「皆さん、聞いてください
ガラワダ、私のお母さん
生れ落ちると、生姜食べ
生姜食べては、成長し
こうして私は逢いに来た」

子供は小躍りしながらまた出て行った。間もなく森の出口に来た。そこでは大勢の子供たちが集まって、椰子の実を転がしては、小さい投槍のあてごっこで、騒いでいる最中であった。始めてこういうものを見た森の子供は、珍しくてならないので、そっと大木の幹に身を隠して、その遊戯を眺めていた。見れば見るほど面白そうなので、自分も飛び出して、一緒にしてみたくて堪らないようになった。そこで、子供たちのと同じような投げ槍を自分でこしらえて、大勢の子供たちの前に現れて、

「皆さん、聞いてください
ガラワダ、私のお母さん
生れ落ちると、生姜食べ
生姜食べては、成長し
こうして私は逢いに来た」

と唱え終わると、椰子の実目掛けて、槍を投げた。が、今までこういうことをした経験がありませんでしたから、手先が狂って、槍は椰子の実にあたるどころか、一生懸命にみている一番近くにいた子供の腕を、刺し通した。意外なことに、人殺しと思って震え上がった、ほかの子供たちは、逃げて行ったので、いつの間にか、また自分一人きりとなった。子供は、悲しさのあまり、またお母さんの所へ帰って来た。けれどその翌日になると、面白そうに遊んでいる大勢の子供たちの姿が浮かんで来て、一緒に遊びたくて堪らなくなった。それでまた森を抜け出て、昨日の所に来た。今日もまた、大勢の子供たちは投げ槍遊びをしていた。それを見ると、木陰に隠れていた森の子供は、何食わぬ顔でつかつかと出て来て、自分の呪文を唱えながら、一緒に遊び始めた。

「皆さん、聞いてください
ガラワダ、私のお母さん
生れ落ちると、生姜食べ
生姜食べては、成長し
こうして私は逢いに来た」

振り返ってみた子供たちは、まるで魔法使いにでも襲われたように、逃げて行ってしまった。森の子供も、その跡を追っかけたが、山育ちの森の子供も追っつかないと見え、子供たちの姿も見失ってしまった。それでまた仕方なく、お母さんの所へ帰って来た。しかし逃げて行った子供たちは家に帰ると「怖かった。あの森には化け物が出るよ。私たちが遊んでいると、何か出て来て槍を投げつけて、おまけに今日は、追っかけられて怖い目に遭った。もう明日からは、あの森で遊ぶのは嫌だ」とその親たちに告げた。
その子供たちの一人のお父さんに、偶然、森の子供の叔父さんにあたる人がいた。その叔父さんは、自分の子供からこういう話を聞くと「それはひどい奴だ。それでは明日お父さんも一緒に行って、とっちめてやろう」と言って、子供をなだめた。明くる日、叔父さんは森まで自分の子供について行った。そして自分は草叢の中に身を潜めて、そっと成行をうかがっていた。子供たちはいつものように、静かな森の中に喜声を挙げながら、遊んでいた。するとこの声を聞きつけて、森の子供はまた出て来た。そして大勢の子供たちの間に混ざって、持っていた槍を椰子の実目掛けて投げつけた。息を殺して待ち伏せしていた叔父さんは、これを見ると、躍り出た。そして森の子供を捕えて、お前はいったい誰だ、と荒々しく言った。
森の子供は待っていたと言わんばかりに、「私のお母さんはガラワダと申します。無花果取りに樹に登ったところを、養母の魔法使いのため、樹の叉の間に身動きもできないようにされてしまった。私はその樹の上で生まれた後、その樹の下に落ちてからは、幸いにあたりに生えていた生姜の新芽を吸って、このように大きくなったのです。可哀想なお母さんは、今もまだその樹の上で苦しんでいらっしゃいます。叔父さん、聞いてください。これは、お母さんから教わった私の歌なのです。」と委細を物語りながら、悲しい声で唱え始めた。

「皆さん、聞いてください
ガラワダ、私のお母さん
生れ落ちると、生姜食べ
生姜食べては、成長し
こうして私は逢いに来た」

子供の歌を聞いていた叔父さんの鷲掴みは、次第に緩んで、その顔には、同情の色が現れて来た。そして子供の素性をすっかり聞き終わると、握っていた手を振り切るなり、その子供の頭を撫でながら、「おお、それでは、お前は私の甥だったのか。まあ、よくそれまでに成長したなあ、その話を聞いてはもうじっとしてはいられない。さあ、早く案内しておくれ。お母さんが可哀想だ。」と言って、森の子を急き立てた。二人は、転がるようにして森の中を抜け、無花果の樹の下に駆け付けてみると、太い叉枝の間には、幾年かの苦しみに血の気の消えたガラワダが、石像のように横たわっていた。叔父さんは懸命になって、その枝を折ろうと焦ったが、何しろ魔法で、しっかりと絡まった大枝は、頑丈だった。一策を按じた叔父さんは、急いで村に引き返し、大勢の村人を連れて来た。馳せつけた村人たちは、研ぎ澄ました石斧を振りかざして、木を伐り始めた。さすがの大木も、大勢の力に地響きを立てて、倒れた。しかし、木が倒れるとほとんど同時にガラワダはするりと葉陰から身を滑らせると、誰にも捕まえられまいと、一散に海辺を指して走って行った。人々は、あまりのことに、ただあれよとばかり、呆然とそれを眺めていた。海辺に着くが早いかガラワダは、すぐに、砂の中に穴を掘って棲むグワダゴという、蟹の姿に早変わりした。ですから、ガラワダの姿は、もう見えなかった。後に取り残された子供は、お母さんに逃げられたと知って、たいそう嘆いたが、幸い親切な叔父さんの家に引き取られた。こうして村の子供たちも、少しも恐ろしがらないで、一緒に仲良く遊ぶようになった。

解釈

この話は、ドイツの伝説パルチファルを思い起こす。というのは、この子供は戦士の素質を持っているようにも思うからである。また、この話の主人公は紛れもなくガラワダだと考えられるが、まず、無花果の実を自分だけ欲張ったという点に、着眼するべきである。そして、さらにガラワダは皆が助け出したにもかかわらず、逃げて、蟹の姿に変じてしまったという。このことは不思議である。このガラワダがもともと蟹だったのか、それともその他の意味なのか。また「猿蟹合戦」のような意味合いにも見受けられる。猿が蟹に青い柿しか与えなかったというのもこのことと類似している。この話は注目に値するが、今はまだ、深追いしないでおこうと思う。

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物いうバナナ

昔、ある夫婦の間に、小さな子供があった。親子三人何一つ不自由なこともなく、平和な生活を送り迎えしていたが、それでもなお、両親の念頭には、一つの心配が絶えず付きまとっていた。それは家の背後の山中に住んでいる魔法使いが、いつか下りて来て、大事な子供を殺しはしないか、ということであった。
ある日、両親は魚捕りに行こうと思ったが、それには子供だけは、どうしても家に残しておかなければならなかった。そこで、魔法使いの魔法力を防ぐために、一房のバナナを家の中に吊るしておいて、「お前に話しかけるものがあったら、答えてやりなさい」とバナナたちに言い残して、出て行った。
次から次へと、魚は面白い程に沢山捕れた。捕れた魚は、新しく作った小さい台の上で、片っ端から燻ぶらせて、芳香を放つ燻製魚を作った。さて、味の良い、よい香りのする燻製魚を作るに急ぐことは禁物であるので、沢山魚が捕れると、それらをみんな燻べ上げてしまうには時間がかかります。後に取り残された子供は、その長い間、一人留守居をしていた。
しかし子供は、別に淋しくてたまらないということはなかった。家の前の大きな扁桃の木からは、蔦蔓(つたかずら)のブランコが下がっていて、その涼しい葉陰は、この上もないよい遊び場所であった。子供はその下で一人おとなしく遊び、お腹がすけば、家の中に掲げてあるバナナの房からバナナを取って、それを食べていた。かねてから子供たちに気を付けていたあの魔法使いは、この有様を知って、一人ほくそ笑んだ。そして、そろそろその悪性を出して、大胆にも山を下りて、あの蔦蔓のブランコの所に来た。子供は、今日も独りそのブランコに腰掛けて、愉快そうに遊んでいた。魔法使いはこれを見て、「お坊ちゃん、おひとり?」と言葉優しく尋ねた。子供は、「いや、いるよ」と答えた。魔法使いは、気味悪い笑顔をしながら、「じゃあ、誰がいるのかね」と尋ね返した。子供は、「ご親戚の人だよ」と答えた。魔法使いは、眼をぎょろぎょろさせながら、「なんdねすって。ご親戚の人が居られますって。では、その人たちのお話聞きたいね」と言った。子供は、「ご親戚のお人方」と金切り声で叫んだ。すると家の中に吊るしてあったバナナは、「うー」と答えた。これを聞くと、魔法使いは、慌てて転げんばかりに、山の上を指して逃げて行った。というのは、魔法使いは大人が居れば子供に危害は加えられないのであった。しかし明くる日になって、魔法使いは昨日のことを考えて、「どうもあの声はおかしい。もしかしたら、あれは、来合わせのお客の声ではなかっただろうか」と思いめぐらした。もう大分長い間、人間の肉に飢えている魔法使いは、この頃では、その旨そうな匂いが鼻を衝き、その旨そうな肉が眼にまで映るので、こんなことを考え巡らしていると、堪えられなくなってずうずうしくも、また山を下りて来た。子供は、毎日バナナを食べるので、吊るしてあったバナナも、今は残り少なくなった。けれども忠実なバナナどもは、よく主人の言うことを守って、その役目を果たした。
魔法使いは、「お坊ちゃんは、本当にいい子。どなたか、おいで」と尋ねた。子供は、前と同じように「親戚のお方」と答えた。すると魔法使いは、「どれ、それではそのお人方のお話承りたいね」と言った。子供は、「親戚のお人方」とバナナに呼び掛けた。バナナどもは家の中から「うー」と低い声で答えた。これを聞くと、魔法使いは、うろたえて逃げ帰った。それからというものは、毎日来て、また毎日逃げ帰った。がとうとう災難の日が来た。そのうちには、バナナも毎日少なくなっていく一方で、遂に大切な最後の一本も平らげてしまうと、子供は、それからいつものように、蔦蔓のブランコに腰掛けていた。すると、魔法使いは、またのこのことやって来て、尋ねた。子供は、「親戚のお人方」とまた常のように答えた。魔法使いは、「じゃあ、お話承りたいね」となおも辛抱強く、聞き返した。子供は、何気なしにすぐ、「親戚のお人方」と叫んだ。魔法使いは、いまにも聞こえて来るかと、半分逃げ腰で耳を傾けていたが、あたりは静まり返っていて、何も聞こえなかった。見る見るうちに魔法使いの目はものすごく光りだした。そして子供に近づいて行って、優しい声で、「お坊ちゃんは、賢いね。ご親戚の方々はお休みなのでしょう。お坊ちゃん、もう少し大きな声で、呼んで御覧なさい。」となれなれしく言った。子供は、なおも大きな声を張り上げて、「親戚のお方」と叫んだ。しばらくの間、魔法使いはじっと耳を澄まして、待っていた。けれど、やはり音一つ聞こえなかった。今まで子供から騙されていたということを、初めて知った魔法使いは、もう大丈夫だと思って、たちどころに子供を殺して、その生肝を取った。魔法使いは、この肝が欲しかったので、その跡には木の葉を詰め込んで、そして腹を綺麗に縫い付けると、死骸は敷物に包んで、家の中に入れて置いた。こうして失敗に失敗を重ねた末、しばらく望みを遂げて、嬉しそうに山の上を指して登って行った。間もなく、子供の両親は、釣りたての新しい魚や、見事な燻製の魚などを沢山提げて、帰って来た。お父さんはお母さんに「坊やが喜ぶだろうな。こんな魚を見せたら」と言った。お母さんも嬉しそうに、「坊やはどのくらい喜ぶことでしょう」と答えた。けれども、隅の方にある敷物包みが目についたのでお母さんは、「あら、これ御覧なさい。坊やは眠っていますよ」と慌ただしく言った。お父さんは存外平気で「よく眠っているようだね。さあ起こしておやり。目を覚まして私たちの顔を見たらどのくらい喜ぶことか。それこそもう眠りはしないよ」と我が子の顔を見ながら独り喜んでいた。
お母さんは、子供の肩に手をかけて、優しく揺り動かしたが、子供は目を開かなかった。お母さんは何気なくふとその頬に手を当てると、血相変えて、「坊やは冷たくなっています。早く来て起こしてください。私はどうしましょう」と声を震わせながら、叫んだ。驚いて走り寄ったお父さんは、気違いのようになって、わが子を両の腕に抱き上げた。同時に二人の眼に映ったのは、その腹の生々しい傷跡であった。お父さんは、抱えている両腕を震わせながら、「さては魔法使いめ、よくも殺しおったな」と言いながら、歯噛みしてさも無念そうに、山の上を睨めつけた。そして、子供の死体をお母さんの手に渡すが早いか石斧を取りに走って行った。石斧を取り出したお父さんは「これではだめだ」と独り言を言いながら、恨みの一念を両腕に込めて、一生懸命に研ぎ始めた。人の一心というものは真に恐ろしいものです。瞬く間に研ぎあげた斧は、どんな堅い黒檀でも、たった一打ちに切れそうだった。山上の魔法使いの棲家に着くと、わざと心を押し鎮めて、「お婆さん、今日は沢山魚が捕れましたので、一つ差し上げたいと思いますが、私の家まで、おいでくださいませんか」と誘いかけた。魔法使いは、復讐を恐れて、「ありがとうございます。では、戴きましょう。甚だ恐れ入りますが、奥様でも、持って来てくださることはできないものでしょうか」とずうずうしく答えた。お父さんは、どうかして子の魔法使いを誘い出したいと思って、「あいにく妻は、足に傷をしていて、それはできません」と嘘をついた。けれども、魚にかけては目のない魔法使いは、喉を鳴らしていた。そして空腹には勝てないで、恐る恐る山を下りて来た。今度逃がしたら大変と、お父さんは、氷のように研ぎ澄ました石斧を真向に振りかざして、入口の内側に隠れていた。食い意地に心を張り詰めされた魔法使いは、きょろきょろしながら、入口に入りかけた。その途端、えい、という掛け声が家中に響いたと思うと、魔法使いの瘦せ首は地上に転がり落ちた。そして首のない体からは、血がだくだくと流れ出て来た。その傍には、お父さんが真っ赤になった石斧を提げて立っていた。そして、「この鬼婆め、思い知ったか」とさも心地よさそうに言った。それからその死骸は、、魔法使いの家に持って行って、その家の敷物に包んで家の中に置いた。これが済むと、家の柱は片っ端から斧の先で伐り倒して、すっかり魔法使いの家を叩き壊してしまい四隅から火を付けた。みるみる魔法使いの棲家も、そしてその死骸も燃え始めた。可愛い坊やの仇を討ったお父さんは、こう言いながら、どことなく晴れ晴れしたように、この有様を眺めていた。

解釈

バナナに言いつけるということが何を意味していたのか、それは自分たちが早く帰ればいいのにそれについて物を頼ることである。魔法使いは何を欲しがっていたか、不老不死のための若い内臓であった。子供はなぜ殺されたのか、それは父と母が望まれない結婚によって子供を得たためで、子供は自分の力で信仰を得られなかった。父と母は魚を自分のために捕り、子供を自分のために産んだことが伺えるのであるが、この魔法使いもまた自分のために子供を殺している。子供はバナナによって試され、バナナを食べてしまったことによって魔法使いに食べられている。親戚の方と呼んでいるのは、おそらく子供へ信仰を知らせるための肉親たちによるもので、それがバナナに具現されている。魔法使いは信仰によって防ぐことができたのである。しかし、子供はそれに及ばずに殺された。そして、それに関して父親は復讐をしたのである。この点では単なる物の取り合いのように考えられる。魔法使いはすなわちハリティのような、女の悪の化身である。すなわち、父親は母親によって騙されている感じがある点が否めない。子供は信仰を得られず生きる権利を失い、単なる喧嘩として父親が子を取られた仇を取ったのである。環太平洋地帯における出産はあまりにも祝福されるべきではないと考えられる。それは、矮人の、つまり動物が人となったことによるもので、人であるが、生物学的な人としてのみ考えられる種族であると見受けられるのである。この段階では人は女に傅くのであり、愛によって生きるのではない。愛によって生きる者は女がアダムの肋から生まれたことをよく知っている。そうでないならば、女から生まれた、偶然の産物に過ぎない。偶然の産物に愛はなく、双子のような関係の内に子を孕むのである。双子は単に霊魂によって一つであり、その明確な区切りがなく個人が定かにならない。ゆえに、愛ではなく集合である。メラネシアも、ポリネシアやオーストラリア同様にこのような女の罪における問題を引きずっている。アイスランドもそうであるし、二本や韓国もそうである。これらの問題はまた実に極まりなく、寝ずの番人による参事においても現れている。我々は本当の意味で女から逃れ、自立して生きるべきである。

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腹の中の首飾り

昔、カクカクとタウレボガという二人兄弟が、レコタという寡婦の妹と一緒に、同じ家に住んでいた。
ある日、二人の兄弟たちは出て行って、家にはレコタとその子供との、二人っきりのことがあった。子供は、お腹がすいて、大声でわめきながらしきりと食べ物をねだっていたが、食べ物はもうすっかり何もなかった。母親は叱るように、「喧しいこと。そんなに泣いたって、食べ物は一人でに出てきはしませんよ。伯父さん方は伯父さん方でああやって遊んでばかりおいでなさる。あの人たちなんかあてにしていたら、大間違いだよ」と言った。が、この可哀想な有様を見ていては母親としてはじっとしておられないので、真珠貝の殻と紐のついた袋とを掲げると、畑に出掛けた。やがて帰って来たカクカクとタウレボガとの二人は、涙で光っている子供の顔を見て、「おや、大変泣いているな。お母さんは?」と尋ねた。子供は禄に利けない口を開いて「僕はお腹がすいて堪らない。お母さんは伯父さん方は遊んでばかりいて、あてにしちゃ駄目だと言っていた。いまにお母さんは畑から沢山食べ物を持ってくるよ」と答えた。これを聞くと二人は、恥ずかしくて真っ赤になった。これほどまで言われては、どうして男として生きている甲斐がありましょう。で、二人は相談した末、潔く死ぬことに決めた。けれども心残りは首にかけている貝殻銭の首飾りであり、このまま死んでしまえば、だれか他人に取られてしまうので、まずこれから始末にかからねばならないのです。それならば二人は、いったいこの首飾りをどうするつもりでしょうか。何を思ったか椰子の樹に登ったカクカクはまだ熟しない実を取ってくると、一つは子供に与え、残りは果肉を細かに刻んで、椀に盛った。そして首飾りを外して、その果肉の中に一緒に混ぜ込むと、それを二人で平らげてしまった。こうして腹の中に納めてしまうと、たとえ死んでも、簡単に盗まれることはないと考えたのだ。腹も十分に膨れたし、心残りの首飾りも始末してしまうと、いまにも攻め寄せてくる敵にでも向かうように、厳しく身支度をして「お母さんが帰ってきたら、こういうのだよ。伯父さんたちは、お母さんの言ったことは、よくわかったから、これから戦場で討死してくるって」と子供に言った。そして槍を肩に担ぐと急いで出て行った。それと入れ違いに、レコタは帰って来た。子供から話を聞いた母親は、びっくりして食べ物の袋は無雑作に投げ捨てて、子供を抱き上げ一散に二人の後を追った。幸い二人の姿は時期に見つかった。二人は小山を登って行くところであった。レコタは、ありったけの声を張り上げて、「お兄さん、レコタです、坊やも一緒に連れて行ってくださいな」と叫んだ。カクカクはタウレボガに「あれはたしかに妹の声だな」と言った。タウレボガは気にもかけないように「いや、今は夕微風が吹いている。あれは鸚鵡が休む前の一歌いだよ」と答えた。そして二人は歩み続けた。レコタは、息も絶え絶えに「お兄さん、レコタです、坊やも一緒に連れていってくださいな」と叫んだ。二人は初めてそれと分かったので、歩みをとめて待っていた。間もなく妹は、子供を抱えて走って来た。タウレボガは、さも可愛くてならないように、子供を抱き上げて、あやしてやった。妹は、大きな目で二人の異様な姿を、見ていたが、その槍が目について、「兄さん方はどこにおいでなさるの?」と尋ねた。カクカクは「兄さんたちは、これから死場所を探しに行くのだよ」と悲しそうに答えた。妹はこれを聞いて、「それでは兄さん、私もお供させてください。」と言って、三人打ち揃ってとある大きな村へ来た。見ると、どこの家も静まり返って、不思議なことに男と言う者は一人も見当たらなかった。ふと椰子の木陰で、大勢の子供たちを遊ばせている、独りのお婆さんが目についた。カクカクは、つかつかと子供たちの側に歩み寄って、男がいない理由を尋ねた。子供たちは「お父さんたちは皆畑に出て働いているんだ」と答えた。三人は、子供たちに向かって、「では、これからお父さんたちの所に行って、こう言っておくれよ。カクカク様とタウレボガ様と妹様とがここまで戦いにおいでなされたと」と言った。子供たちは、飛ぶように走って行った。途中あいにく一本の大木が道の上に横たわっていたので、それを越すと、さっき言われたことは、ちゃんと忘れていた。一人の子供が、「なんのために畑に行くんだったかな」と言うと、他の者も、「そうだな、そういえば俺たちにも、思い出せないよ」と答えた。するとまたある子どもは、「みんな、帰ろうじゃないか。そうすれば、また思い出せるかもしれないぞ」と言ったので、大勢の子供たちは騒ぎながら村へ帰って来た。そして三人の兄妹たちのまえにやって来て、「おじさん。道に大きな樹があったもので、またぐときさっきのことは忘れてしまった。伯父さん方は誰?」と聞いた。カクカクとタウレボガとは、繰り返して、「お父さんたちの所へ行って、こう言っておくれ。カクカク様とタウレボガ様と妹様との三人兄妹が、ここまではるばる戦いにおいでなされたと。みんなでまたぐから忘れてしまうのだ。二組に分かれて、一組が超えてしまったら、こちらにいる者が忘れないように、超えてしまったものに繰り返して言ってやるのだ。みな越えてしまったら、それからは、一緒に行っても差し支えない」と言った。子供たちはまた飛んで行った。やがてあの大木の所へ来ると、子供たちは二組に分かれて、一組はこちらに留まったまま、他の一組だけがまたぎ越えた。こちらにいた子供たちは、「おい、さっきの言葉は、覚えているかい」と尋ねた。木を越えた子供たちは「またすっかり忘れてしまった」と答えた。こちらにいる子供たちは、大声で教えてやると、自分たちもそれから木をまたいで、大勢打ち揃って畑に来た。汗水たらして余念なく立ち働いていた村人たちは、子供たちの言葉は聞くと、敵襲だと立ち上がった。手に握っていた鋤鍬(すきくわ)は鋭い槍に取り換えられると、哄(とき)の声を挙げて村へ押し寄せて来た。これを眺めていたカクカクは、椰子の樹の陰に休んでいた、あのお婆さんに、「私たちは真でも、この子供だけは、あなたの手で助けてください。お礼は、何なりと差し上げましょう」と頼んだ。お婆さんは、変なことを言うものだと、兄妹たちの姿をじろじろと見ていたが、「見れば、何もお持ちのようには見えませんがね、何をお礼にくださるというのですか」と聞いた。武器をかざした村人たちは、もうひしひしと兄妹たちの身辺に迫っていた。カクカクは気を揉みながら「お礼として私たちの体の中にあるものを差し上げましょう」と言い放つが早いか、群がる村人の真ん中さして躍り込んだ。残りの兄妹たちも、これには遅れまいと、続いて飛び込んだ。たちまち激しい戦いが始まった。けれども僅か三人の兄妹たちには、どうすることもできなかった。見る間に大勢の村人に囲まれて、四方からは雨のように槍を浴びせられました。やがてあの騒がしかった戦いが次第に鎮まっていくと、折れた槍や壊れた武器や、なまなましい血潮が散らばっている地上には、痛ましい三人の死骸が横たわっていた。が、あの子供だけは、お婆さんの手にしっかりと抱かれながら、無事逃れることができた。夜も間近となって、あたりは次第に暗くなってきた。三人の死骸はこれから料理して、夕食のご馳走に食べることになった。けれど胸に一物あるお婆さんは、肉は少しも欲しくはないが、ただその中にある物をください、と村人に願った。料理していると、思いがけなくも、体の中からは見事な首飾りが出て来たので、肉の代わりとしてそれを、お婆さんに与えた。意外な宝を得たお婆さんはよく約束を守って、大変親切に子供の面倒を見てやった。
子供は日増しに強くなり、日増しに乱暴になって行った。その近所で餓鬼大将と言えば、うなずかれるくらい、有名な腕白小僧で、したがってその乱暴さもまた話にならないくらいであった。今日もまた、いつものように自分の意に従わない子供を、いじめていた。すると大勢の子供たちの中で、とりわけ大胆な一人の子供は、これを見て、「君は、なぜそんなに友達をいじめるのだい。それとも、それで、亡くなったお母さんたちの敵でも取る気かな」となじった。けれどもお母さん方の最後を知らない子供は、それが何のことか、さっぱりわからなかったが、いつもの増長から傲慢な風をして、「なんのためだろうが、大きなお世話だ。黙っていろ」と𠮟りつけた。が、さすがの強情な子供でも、その言葉が気にかかってならないので、急いで家に帰って来た。そして椰子の樹の下に休んでいるお婆さんの姿を見ると、いきなり、「お婆さん。いま奴らが僕に変なことをいったが、僕のお母さんたちはいったいどうなさったのです。聞かせてください。」 と尋ねた。お婆さんは、待っていましたと言わぬばかりに、「いまあmで隠してはいたがね。お母さん方は、それ、あのお友達のお父さん方から殺されたんですよ」と語りあかされた。初めて自分の素性を知った 子供は、悲しさに耐えきれないで村から飛び出すと、何とかして親たちの無念を晴らしたいものだと、道々考えていた。そのうちにいつの間にか、日は暮れて、夜となった。一計を巡らした子供は、そっと村に忍び言って、寝込んだ家々の戸を片っ端から閉めていった。お婆さんの家は除いて、こうして閉め切った家々に火を放ったから堪りません。物凄い炎は、魔物の舌のように、闇夜を舐めていった。こうしてお婆さんの他は、すべての村人が、自分の家で見事生火葬の大往生を遂げたのであった。親たちの仇討ちをした子供は、焼け残った灰を見て、ほっと胸をなでおろした。

解釈

この話は妹が兄にひどいことを言うことから始まる。妹は寡婦でててなしごの息子を持つ。兄たちは貝殻銭の首飾りを財産として体の中に入れるが、妹の息子を育てる代わりに婆さんにあげている。注目するべき点は、兄妹はおのずから負け戦を仕掛けている点である。しかし、のちに妹の子供がその復讐をしている。次に、戦を仕掛けた村の子供たちは不思議と大木を越えると記憶がなくなっている。ここには意味があるように思う。(言葉を扱うと魂を忘れるという意味か、またはある一線を越えると記憶は消えるという意味か)→(否、この大木がウェストラインの一つであると考えられる。また、蝶が海と大陸を分けた場所。さらには海が入っていた木は水を一か所に集めた場所、そして種の胤を見て海は木を生み出し、それはタニームを産んだと考えられる。そこは月が昇った場所でもあるようである。)貝殻銭をお婆さんに与えた結果、妹の息子はお婆さんに大切に育てられるということ。ここにも「交換」という概念が含まれているようであるが、ここでは「売っている」が正しいのかもしれない。結果息子は育ち、村人は死んでいる。メラネシアの文化は、土民の無念を語るもののようにも思う。そして、それはト・カビナナやト・カルブブ、カットとマラワなどの善意と悪意の間に見られるもののようである。本来善意と悪意は同一ではないが、どちらも神の業をつかさどることがある、という点で、善も悪も義には及ばないというのが人間世界の信仰の要となっているが、メラネシアの神話伝説はその意味についてのメッセージにも思う。

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子蛇の働き

これは蛇どもの中で一番小さいワケケが、海の王様アレボと戦って、しかも征服したという話である。アレボは、見ただけでも身の毛の逆立つほどに猛悪な、そして、真っ黒い、しかも体と言えば象のように大きい王様であった。それにも似合わず食べ物と言っては、僅かに檳榔子か、胡椒の葉ほどのもので、それを、細い瓢箪(ひょうたん)の口から棒のように長く取り出した珊瑚の粉と一緒に食べるのであった。
ある日、ある人が、二人の子供に向かって、「これから海底のアレボの所に行って来て、珊瑚の粉を入れてあげるから瓢箪をください、と言っておいで」と言いつけた。二人は早速絵のように美しい海底に潜って、アレボ王の所に着くと、その瓢箪を乞い請けて、再び水上指して浮かび上がって来た。その汚い瓢箪をじっと眺めていたお父さんは嫌な顔をしながらそれを取り上げて、横に振ってみた。するとまだ中に残っていた珊瑚の粉の塊までも、ごろごろと不景気な音を立てていたので、海底でこれを聞きつけたアレボもまた、自分の瓢箪を振ってその音に合わせながら、響かせていた。お父さんは気持ちを悪くして「もう一度、アレボに会って来て、も少しいい瓢箪を貰ってきておくれ。これはあまりひど過ぎる」と二人の子供に言いつけた。二人の子供はまた海中を掻き分けアレボの所へ着くとお父さんの言葉を告げた。これを聞いたアレボは大変怒って「なんだと、帰ったらお父さんに、お前の生肝食われたければ、遠慮なく食ってやると言え」と荒々しく𠮟りつけながら、瓢箪を与えるどころの話ではなく、二人を追い払ってしまった。仕方なく帰ることになり、途中兄は弟に「これは困った。アレボが言ったことは、お父さんに申し上げない方がよりと思うがどう思うかね」と尋ねた。弟は、「それはいけません。兄さんがおっしゃらないなら、この私が申し上げます。」と答えた。弟は、王様の言葉を残らず告げた。聞いていたお父さんは、みるみる顔色を変えて、一つ腹癒せ(はらいせ)にひどい目に遭わせてやろうと、いろいろ思案をした。やがてお父さんは、何か考えついたように、一匹の豚を料理して、大勢の蛇どもを呼びにやった。思いがけないご馳走に躍り上がった蛇どもは、あちらの山やこちらの叢陰(むらかげ)、石垣などから、這い出て来た。煮上げたての豚と芋とのご馳走の香りは集まった蛇の鼻を刺激した。自分の力だけでは、到底あの恐ろしい王を退治することはできないので、お父さんは、蛇どもの助けを借りようと考えたのだった。
蛇どもの仲間にワケケという一番小さい蛇があった。あまり小さくて、一目見たところでは眼にもつかないほどなので、仲間たちからも一人前の待遇を受けたことはなかった。今日もワケケの前には、可哀想にご馳走はなかったのです。多くの蛇どもは口々に、「あんな小さいくせに、一人前のご馳走をやれるものか」などと、手前勝手なことばかり話し合って除け者にしていた。けれどもモタバワという大蛇だけは、これをみて大変可哀想に思い、少しばかり葉に包んで食べ物を、そっとワケケの方へ回してやった。
やがて御馳走に腹の用意ができると、蛇どもは、手に手に木製の刀を持って、丸木舟に乗り込んだ。目指すはあのアレボ王、血気にはやる若蛇どもは、もう鱗の生えた手に撚りをかけて、待ち構えていた。除け者にされていたワケケは、賢くも、いち早く皆を出し抜いて気づかれないよう、ちゃんと突っ張り木の上にとぐろを巻いていた。船は、波を乗り越えてアレボの棲家の真上を指して近づいて行った。いよいよ目的の場所に着いたが、波のために水面が動くので、よく海底の有様がわからなかった。そこで用意してきた椰子油を水面に流すと、落ち着いてしまった。海底の有様は小さい海藻や小石などが綺麗に並んでいてはっきりと見えるようになった。目指す敵のアレボは、好きな檳榔子を大事そうに食べている最中であった。これを見澄ました一匹の蛇は、刀を振りかざして海中へ潜って行った。それと知ったアレボは、持っていたセメント匙で瓢箪の横を続けざまに叩きつけた。すると、大魚が大口を開けて吐き出すように、その瓢箪の口からは、大きな泡が噴出して来た。アレボ退治に見事一番槍を挙げてやろうと折角飛び込んだ蛇も、泡のために吹き上げられてしまった。そして敵には一太刀も浴びせられず、水面に浮きあがって来た。他の蛇どもも、続いて飛び込んだ。けれども瓢箪の口から噴き出す不思議な大泡は、みんな吹き飛ばしてしまった。そしていよいよ大蛇モタバワの番となった。モタバワは、小さい声でワケケに「今度は私の番だ。お前は、すぐ私の後に続いてこい。そうすれば、さしものアレボもお前まで吹き飛ばす余裕はないに違いないから」とささやいた。大胆なワケケは刀も持たず、モタバワに続いて、すぐ飛び込んだ。案の定モタバワの大きな体も、あの恐ろしい泡に会うと、一溜りもなく吹き上げられてしまった。しかし、小さいワケケは、素早く体をひねってモタバワの刀を受け取ると、アレボ目掛けて突進した。さすがのアレボもこの雷のような突撃に会っては、身を避ける余裕もなく、一声立てたと思うと、遂に首を取られてしまった。沈着なワケケは、そのまま浮かび上がろうともしないで、その体を裂くと肝を取り出した。こうして首尾よく敵を打ち取ったワケケは、肝を口にくわえて、悠々と水面に現れて来た。そして水上に顔を出すと、自分の呪文を唱えた。
今まで失敗してしょげていた連中は、これを見てなおさら顔色もなく、互いに顔と顔とを見合わせたまま、眼を動かしているだけであった。そして、あの海に飛び込むときの元気はなくものも言わないで船を漕いで行った。あれほど軽蔑を受けていたワケケは、今は一躍して蛇どもの頭と仰がれた。やがて船がコココという所に着いた時であった。一匹の小魚が、アレボの肝を口にくわえたワケケの姿を見て、一大事とばかりに、マタメラという大魚に注進した。使者はそれとばかり、マタメラの手元から、四方の魚仲間へと走った。けれども復讐の念に燃えている魚どもが、どっと海岸さして押し寄せて来た時には、ワケケは上陸した後であった。
そんなことには頓着なく、陸上に飛び上がった魚どもは、まっしぐらに陸上を突進した。この時代には魚は水陸いずれにも住むことができたのである。強いばかりではない賢い性質のワケケは、早くもそれと知って、折よく通りかかったトダという人声鳥に、「お願いがある。実はマタメラの奴らが、僕の命を取ろうと後を追って来るところだから、奴らがここを通らないようにしておくれ」と言った。するとまもなくマタメラの一味は、慌ただしく息せき切って走って来た。機を見澄ましていたトダは木の上で一声高く叫んだ。突然、頭上で人間の声がしたので、慌てふためいた魚どもは逃げ帰ろうとすると、ラディアディという飛び魚がこれを見て、「ちょっと待った。今空中に飛び上がって、正体を見届けてやろう」と言って、空中に飛び上がった。けれども人間らしいものは、少しも見当たらなかったので、それに元気づいた魚どもは、すぐさま追跡を始めた。みるみる足の速い魚どもは、ワケケのすぐ背後に迫って、今一息で飛びかかるといういう危険な有様となった。じっと眺めていたトダは、友達の危険を見て、また大声で叫んだ。いままで安心して突進して来た魚どもは、重ねて人の声を聞くと、海を指して逃げ帰った。こうして小さいワケケは無事命を全うして、アレボの肝のご馳走に舌鼓を打つばかりでなく、蛇仲間の首領として、死ぬまで仰がれたのであった。

解釈

この話は興味深い。まず、アレボとはギリシャに見るポセイドンのことだろうか。この神話には青竜の戦いが含まれていると考えられる。蛇たちは海を制するためにいるようである。魚はあまり増えるとよくないのかもしれない。また、メラネシア人にも魚から人になった者というのがあるのだろう。しかし、ここで人間を海の王が脅しつける点、人がアレボの瓢箪に珊瑚を入れてやる点から、この海の王を信仰する文化もあったのかもしれないが、蛇に重点があるのでおそらく蛇の方を崇拝しているのだろう。またアレボが殺されて魚どもが怒ったとあるように、アレボは魚であると考えられる。珊瑚を食べる点が北欧神話のニドヘグとの関連が伺えそうでもあるが。しかし瓢箪を持つ点、セメント匙を持つ点は不思議である。そして、この時代の魚は陸へ上がることができたと言うが、これは現代でも魚の霊が夜に陸で現れるというような感じを日本でも受ける点から想像はできる。それから、トダという鳥は蛇の味方であった。この点で鳥は蛇と力を合わせて海を守る必要があるように思う。ポリネシアのマウイの伝説のように、鳥どもがタニームに逆らうことはよくないのかもしれない。これは動物の祖先としての女性性ゆえと考えられる。しかし、生まれて来るものは異なる。この点で、特にベヒモスとレビヤタンに関してはある種の擁護を神から受けているのである。これを考慮するならば、ポセイドンに関してはかなり良くない気配を感じる。それは海の性質上の難点を利用したものだからである。この話はギリシャ神話を紐解く際にも必要である。また、海の難点に関して非常に重要と考えられる。

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賢い鶺鴒

ある島では、一人の男には一人の妻しかないそうであるが、パプア島ではそうではなかった。この話も、五人のお嫁さんを持っていたある男に起こったことである。この男は、永らくの間肉を食べなかったため、大変喉を悪くして、肉が食べたくてたまらないことがあった。雨が毎日降り続いて、狩場には青々とした草が深く茂っていた。これでは、猟をすることもできず、肉が食べたくて途方に暮れていた。しかしその夜ふと妙案が浮かんだので、夜の明けるのを今か今かと待ちわびていた。
朝になると、すぐに一人のお嫁さんを呼び出して、一緒に畑に行った。お嫁さんは一生懸命になって芋畑の雑草を取っていると、胸に一物ある夫は、丸々とできた芋を持って来て、それを焼くように言いつけた。こうして焼いた芋は、実は死人を弔う人の食べ物だった。お嫁さんは、今まで夫が家の壺で料理したのでなければ、食べなくて、こんな焼き芋は食べたことがなかったので怪しんだ。しかし、それは顔にも出さないで、言いつけられたように、芋をすぐそばの火の中に入れた。焼ける匂いが鼻を衝くころ、手ごろの芋を一切れ取り出して、灰を払い、黒焦げになった皮を剥いでいると、一羽の鶺鴒が、すぐ上の木の枝に飛んできて、なんだか気味悪い歌を歌い始めた。

「芋を伐る人は
可哀想なお人
芋のお相手じゃいな
それは芋切るお前さん」

耳を傾けて聞いていたお嫁さんは、びっくりして、「聞いてください、私は食べられると、鳥は歌っています。」と叫んだ。夫は「そんなバカなことがあるか、よくお聞き、そんなことは少しも言っていないじゃないか」と嘘をついて、空腹の余り、「それより芋のお料理はできたかね」と尋ねた。お嫁さんは「はい、できましたよ」と答えた。
お料理ができたと聞いて、夫は、何の用のためにか鋭い刀を把ってお嫁さんの側に進み寄った。そして突然お嫁さんの首を切り落としてしまった。可哀想にお嫁さんは、夫に殺されてしまったのです。夫はお嫁さんの肉と料理したばかりの芋とを食べ始めた。こうして鶺鴒が、木の枝で歌っていたことは、図らずも実現された。お腹はぞんぶんに膨れたし、久しぶりのご馳走に旨い味は占めたし、もうこの上、畑で働く気持ちにはならないので、重い足を引きずりながら、帰って来た。しかし、今日のことは何とかして隠してやろうと、お嫁さんたちが迎えに出てくると、「ああ、今日は気分が悪くてたまらない。まだ日は高いが、これではとても働く気にならないので、帰って来た。妻はいい気持ちで畑に眠っていたから、そのままにしておいた。今晩は畑で眠り通すのだろう」と騙しぬいて、囲炉裏にはどっさり火を焚かせ、自分はその傍に横になった。夫の言葉を誠と信じている妻たちは、眠りもしないで終夜、静かに夫を見守っていた。
さて明くる朝になってみると、昨日のご馳走に味を占めた夫は、また肉が欲しくてならないので、病気などは忘れてしまったようにして、第二のお嫁さんを畑に誘った。他のお嫁さんたちは、出て行くお嫁さんに、「畑であの人に会ったらよろしく言ってくださいね」と言った。他のお嫁さん達はみな昨日のお嫁さんが生きているものだとばかり、思い込んでいるのであった。畑につくと夫は、芋を持って来て、焼くように言いつけた。お嫁さんは、「もう一人の方の分も、一緒に焼いてあげよう」と尋ねた。夫は、「いやそれには及ばないよ。妻は妻で自分で食べるくらいは持っているからね、二人分だけ料理すれば沢山だ」と答えた。やがて芋は手ごろに焼けたので、一切れ、火の中から取り出した。すると、ちょうどこの時、あの鶺鴒がまた頭上の木の枝に飛んできて、例の歌を歌いだした。 

「芋切る人は
可愛そうなお人
芋のお相手誰じゃいな
それは芋切るお前さん」

これを聞いたお嫁さんは驚いて「鳥があんな歌を歌っていますよ。不吉な、私が食べられるって」と叫んだ。夫はまた、「そんなバカな話があるものか。鳥はそんなことは歌っていないじゃないか。それより食事の用意はできたかね」と嘘を言った。夫は、お嫁さんの油断を見澄まして、また、その首を打ち落とした。今日も、その肉と芋のご馳走でお腹は膨れた。残りの妻たちは、帰って来た夫を見て、たいそう怪しんだ。考えてみれば、昨日お供をしたお嫁さんの姿が見えないばかりでなく、今日お供をしたお嫁さんもまた、帰ってはこなかった。けれどもお嫁さんたちは、一言も言わないで、また夜通し夫を見守っていた。その明くる日は、第三のお嫁さんが同様の運命に陥ってしまった。第四のお嫁さんも、同様であった。いまはただ、第五のお嫁さんが、残っているだけです。明日はいよいよ自分の番かと思えば、お嫁さんは恐ろしくてならなかった。このお嫁さんには、男と女の二人の子供がいた。今夜限りで、可愛い子供たちとも別れなくてはならないと思うと、涙が流れた。お嫁さんは子供たちを傍に引き寄せて、「お前方も、ご存じでしょう。生き残った人としては、お母さんたった一人きりです。けれど明日は、いよいよお母さんの番となりました。お母さんが殺されたら、お母さんの肝は、この家まで飛んできます。籬(まがき)の葉が、ざわざわと音を立てた時は、このお母さんの肝がこの家に着いたときです。お前さん方は、すぐにお母さんの肝を見つけて、大切にしておきなさい。そうすれば、まさかの場合には、きっと役に立ちますから」と懇ろに諭した。
お母さんの慈愛に満ちた言葉に子供たちは、涙を流して、悲しんだ。けれどももうお父さんもお帰りになる時期なので、お母さんに促されて、涙をぬぐった。明くる日は、子供たちにとっても、お母さんにとっても、最も悲しい日であった。お母さんは、子供たちに見られないように顔を背けて、涙ながらにそれとなく別れを告げた。こうして最後のお母さんもまた、無残にも夫の手に殺されてしまったのです。が、母親の一念は恐ろしいもので、その肝は家へと飛んで行った。子供たちは、なんだか恐ろしいような気がして、家の中で震えていると、籬の木の葉の間で、がさがさ音が聞こえた。急ぎ飛び出て、籬の間を探すと、お母さんの肝があった。それで、二人は、大切にそれを、木の椀の中に納めておいた。男の子は、妹に向かって、「お父さんは、もうじきにお帰りになるでしょう。ここにいては、僕たちまでも食われてしまう。そうだ、逃げようではないか」と言った。
乙女が、さっそく身支度を終わって、お母さんの肝を収めた椀を持つと、二人は手に手を取って、急いで家を逃げ出した。道は、山へと通じていた。程なくお父さんは帰って来た。家の中は、ひっそり静まり返っていた。お父さんは歯を食いしばって、「さては逃げたな」と口惜しそうに、怒鳴った。肝心な二人に逃げられては、さっそく明日からでも、肉のご馳走などは思いもよらないことであった。かっと怒ったお父さんは、すぐに二人の後を追いかけた。暫くの後、小山を登っていく二人の姿が、眼に止まった。兄弟は、そんなことは夢にも知らないで、やっと山の頂上について一安心と見下ろせば、あの恐ろしいお父さんがもう山の下まで近づいていた。二人は思わずお母さんの肝を抱いて、「おお、山よ、執拗く追って来る人の頭上に崩れてやれ」と叫ぶと、山は木も草も石ももろとも、物凄い山崩れとなって、お父さんの頭上目掛けて、崩れ落ちた。が、強情なお父さんは覆いかぶさる土を跳ね飛ばして、土の上に出て来た。その頃には、子供たちも、また一段高い山に登って行くところであった。二人は、頂上に着いたとき、追っかけて来る人の姿を見て、「おお、山よ、執拗く追って来る人の頭上に崩れてやれ」と叫んだ。すると山はまた、地響き立てて崩れ落ちた。けれどその人は、なかなか強い人で、深い土や砂も払いのけると、また地上に現れて来た。再度山崩れに血眼になったお父さんは、荒れ立った猪のように、突進してきた。二人の危険は、刻一刻と迫って来た。二人は大きな山の頂上に駆け上ると、声を張り上げて叫んだ。突然木を裂く音、岩の壊れる音、地滑りの音が起こったと思うと、山崩れは、土煙を巻き立てて、迫ってくる人の頭上に落ちかかった。一度ならず二度までも、突進してきた強者でも、これには敵わなかった。遂に深い土砂の中に、押しつぶされたまま、無残な最期を遂げてしまった。
胸をなでおろした子供たちは、今初めて我に返った。ここは見も知らない深山の中、しかも日は次第に暮れて行った。あたりは、ただ物凄い木ばかりで、静かであった。こうして一難は逃れることができても、家もないこの山奥では、死を待つより他はなかった。歩みつかれた二人は、仕方なくとある一本の樹の下に腰を下ろした。そのとき、男の子は、何かに驚いたように、不意に飛び上がった。「大変だ、猪だ」子供たちが、平気で休んでいたところは猪の洞穴のすぐ前で、猪は自分の洞穴へ帰って来たのであった。薄闇に牙をかき鳴らした猪は、剛毛を逆立てて、突進してきた。二人は無我夢中で木を駆け上ると、しっかりと枝にしがみついた。猪は、恐ろしく吼えながら、木の幹に爪を立てて、登ろうと焦っていた。しかし、猪もそのうちにすっかり疲れてしまって、真夜中ごろには、樹上を残念そうに睨みながら、自分の洞穴へ引っ込んで行った。森は静まり返った。はっと正気返った妹は、「お兄さん、降りて逃げましょう。ここにいては危険です。」と兄にささやいた。妹の言ったようにしたら安全だったでしょう。けれど兄は、この暗黒の森が恐ろしくてならないので「いや、それは危ない。小鳥が歌いだすころまでは、ここにじっと、こうしていよう。夜が明けたら、どうにでもなるからね」と言った。やがて、木の間は、ほのぼのと白くなってきた。魔のような森にも、小鳥は目覚めて、一斉に歌い始めた。もう大丈夫と思った二人は、一刻も早くここから逃げ出そうと思って、そっと木を下りた。すると、突然洞穴から猪が出て来て、二人の体を引き裂いてしまった。そして見る間に、あたりは骨ばかりとなった。お父さんから二人を救ったお母さんも、こうして猪の洞穴に近寄った二人を助けることは遂にできなかった。

解釈

東南アジア、オセアニア地域で、この手の男が悪いような話はなかなかないが、母が正しい者であるにしては非常に救われない話である。この点に周辺の女の罪を表す神話が分布する原因を見出すのであるが、それは的を得ているかどうかなかなか判断に難しい。しかし、なぜ鶺鴒は女に殺されることを告げたのだろうか、またなぜ猪が子供たちを狙ったのだろうか。ここには疑問が多く残る。例えば、オークは豚を養い、豚は人間の子を養うというルーン詩の言及である。日本では鶺鴒は伊弉諾と伊弉冉に性交を教えた鳥としてあらわれる。しかし、決定的な話の論点が見つからないので、このくらいにしておきたい。

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魚嫌い

ガビ人は魚嫌いで、どんなに大きい見事な魚でも、ガビ人に魚を与えてはいけません。それならば、ガビ人は、もともと魚嫌いなのだろうか。
昔ガビ村のある人が、一匹の犬をお供に連れて、猟に出掛けた。あいにくその日は不猟続きで、奥へと山を分け入ったが、獲物は僅かカンガルー一匹が関の山だった。そのうちに全く見知らない山奥に踏み迷ってしまって、あちこちと歩き回っているうちに、丸い池の畔(ほとり)に来た。油を溜めたように沈みきっている水には、盛り上がるほどに沢山な魚が泳いでいる。この池の名前をワポギと言って、実はこの底に、アバイアという魔法の鰻が住んでいる。けれどももちろんこの人は、そんなことを知っているわけがなく、犬は嬉しそうに水際に走って行って、躍り上がる魚を口で捕えた。不猟続きで気を腐らせていた人もこんなに沢山魚がいるところを見つけて、気を取り直して喜んだ。しかし、別に魚を取ろうとや思わなかったので、今日はただこの池の位置に目印をつけて、そのまま引き返した。その夜は僅か一匹のカンガルーを料理して、近所の人たちと共に食べた。しかし、池のことは一言も明かさなかった。明くる日になって、男は大勢の村人たちに、「私のお供をする人はいませんか。沢山魚のいる、珍しいところを見かけるでしょう」と言った。魚と聞いては目のない村人たちは、喜んで皆、芋やバナナや砂糖黍(甘蔗)などの食べ物を持って、賑やかに集まった。村に残っている者といっては、留守をしている小さな子供たちぐらいの者だった。いよいよ男は大勢の村人たちの先に立って、出発した。
やがて、目的の池に着くと、食料や檳榔子の入った袋などは、側においた。そして女たちは、手に小さい網を持って魚を取り始めた。魚は重なるようにいて、捕り手は上手な女たちなのでいろいろな魚、車エビ、鰻などの獲物は、たちまち岸辺に山のようになった。村人たちの中で、特に際立って魚捕りの上手な女があった。
この女が、深く池の中に這い込んで、魚を捕えていると、あの池の主、魔法の鰻アバイアが手にかかった。けれども年を経た池の主なので、そうやすやす捕られなかった。ぬるぬるした体を巧みにねじり、女の手を抜けて、一散に逃げて行った。忙しかった一日は、こうして過ぎて、やがて日は暮れ出した。今まで面白さに前後も忘れていた女たちは、湖の面を吹く夕風に漸く(ようやく)我に返って、暫し一休みと、池の岸に腰を下ろした。しかし、自分たちの棲家の平和をかき乱された鰻どもは、煮え返るような騒ぎで池の中を右往左往していた。危うく女たちの手から逃れた若鰻や小鰻どもは、アバイアの命令で、急を四方の河の水の精たちに知らせた。そして、夜更けの闇に乗じて、かけ集まった水の精たちは、アバイアを中心として、これから復讐の相談を凝らした。
そんなことが池の中で起きているとは知らないで、ガビ人たちは取ったばかりの獲物で舌鼓を打って、また魚捕りの準備に取り掛かった。男たちが急ごしらえの壺を作って、食べ残りの魚をその上に並べ、焚火で燻製を始める頃、女たちは、また、めいめいに枯草の松明を手にして、賑やかに魚捕りを始めた。突然あたりに異様な風が吹いてくると、黒い雨雲が、池の上に低く垂れさがって来た。程なく大雨が降り始めたのと同時に、いままで静かだった池の水は、見る間に高まって来て岸を覆い、草原を隠し、見る限りあたりは一面の水となった。欲深く池の中へ深く入っていた女たちも、それから岸辺で魚を燻していた男たちも、逃げ腰になる暇もなく、みな濁水に飲まれてしまったのであった。ただ一人、お婆さんが助かった。このお婆さんはどうして助かったのでしょう。
そのお婆さんと言うのは、魔法使いであったので、村人たちが捕った魚は、ただの魚ではなく、アバイアの手下だということを知っていた。そこで、お婆さんは、後の祟りを恐れて、自分とその二匹の犬にも決して食べさせなかった。けれどその中の一匹はとうとうお婆さんの言うことを聞かず、地面に落ちていた魚の骨を食べた。こうしてお婆さんは、樹の下に座ったまま、夕間暮れに女たちの魚捕りをじっと眺めていた。そのうちに大粒の雨が、いきなり降り始めると共に、池の水は沸き立つように溢れて来た。お婆さんは、慌てて二匹の犬と燃えている薪とを握るが早いか、一散に樹に駆け上った。水は、物凄い音を立てて、恐ろしい勢いで高まって来た。機の頂上まで漸く駆け登って、ほっと思った時には、もうすぐ足元まで登って来ていた。しかし、暗くて目には見えなかったので、お婆さんは、手にしていた薪を木に叩きつけた。すると大きい火花が散りほんの一瞬で、消えてしまった。それでどこまで水が来ているかが分かったのである。
危険が目の前に迫ったお婆さんは、生きた心地もしないで、命懸けになって考えていた。すると突然お婆さんの胸に、思い当たることがあった。それは一匹の犬だけが、魚の骨を食べたことであった。そこで、お婆さんは水の中へその犬を投げ込むと、水は満足したように、それっきり上がってこなかった。
やっと人心地に返ったお婆さんは、また薪を木に叩きつけて、その火花で下を覗いた。すると今度は、すぐには消えないで、ずっと樹の下の方に生えている玉蜀黍の葉にあたって、光った。そこまで水は退いていた。程なくまた火花を散らしてみると、それは地に落ちてしばらくの間地上を照らしていた。そこで水は全く退いたということが分かった。けれどもあたりは真っ暗闇だった。用心深いお婆さんは、夜が明けるまでは、降りようとしなかった。そのうちに、恐ろしかった夜は明け始めた。安心して初めて元気づいたお婆さんは、恐る恐る樹を下りて来た。見ると、いま昇ったばかりの旭日に輝く池の水は、嬉しさに沸き立つように踊っていた。お婆さんは、思わず水面に向かって、「人間を鵜呑みにして、そんなに嬉しいか。それにしてもあれほどの村人たちは、本当にみんな死んでしまったのだろうか」と言った。波は、ますます高くなり、水は、ますます嬉しそうに沸き立った。すると突然、その波の間から沢山なガビ人たちの足が見えた。そこで、村人たちも、すっかり死んでしまったということが確かに分かった。
お婆さんは、犬なんか放り棄てて、急いで村指して下りて行った。けれども犬でも、気味の悪い池を恐ろしいと思って、お婆さんの先に立って、走って行った。村へ着くと、わびしそうに待ち焦がれていた子供たちは、よりたかって来て、口々に、「お父さんやお母さんはどこですか。お婆さんは、たったお一人でお帰りですか」と尋ねた。お婆さんは、子供たちに真実を知らせては可哀想だと思い、「お父さん方はね、みんな魚燻べが終わるまではお帰りにならないよ」と言った。そしてお婆さんは、急いで自分の家に帰ると、紐のついた大袋を担いできて、「お前さん方の飾物や槍などは、どこにしまってあるのかね」と尋ねた。子供たちはこれを聞くと「お婆さん、なぜ私たちの者を持って行くのです。そんな物はあげられません」と答えた。お婆さんはどこまでも子供たちをすかすように、「このお婆さんがね、お前方の物を、大事に預かって置いてやろうというのだよ」と言い捨てて、家々の宝は片っ端からその袋に詰め込んで、自分の家に持って帰って行った。子供たちは、お婆さんの言葉を信じて、二日ほど指折り数えて待った。けれども音沙汰なしなので、子供の間にはますます心配が募って来た。それでお婆さんの家を訪ねて、「お婆さんのお帰りが遅いから、もう三日も立ちますね。お父さん方はやっぱり帰ってきません。本当のことを言ってください」とせがんだ。仕方がないと思って、真実を物語って聞かせた。子供たちは、初めて親たちの不運を知ると、もう親には会えないと思って、声を限りに嘆いた。それからは、ガビ村には愉快な笑い声というものは、聞こえなかった。子供たちは畑から野菜を取って来て、泣く泣く親たちの追悼会を済ました。それから幾十年か経って、子供たちもお婆さんの手で、今では立派な若者となり、また女となった。そしてその間には、また沢山な子供も生まれた。こうしてガビ村は、昔に劣らないほど賑やかなところとなった。人間は、沢山になっても、今までかつてあの地に近づいた者もなければ、また親たちの仇討ちをしようなどと思ったものもなかった。こういうことのために、ガビ人は、肉は食べても、決して魚だけ食べなくなったのです。そしてそれはまた、村人のためにも幸福であった。というの葉、アバイアは、本当に恐ろしい主であったからだった。しかも、あの恐ろしい力が魔法であるとはだれが知っているでしょうか。

解釈

アバイアは何者だろうか。非常にルーンについて関連があるとも思われるメラネシアの神話はアバイアに関しても、イアルの詩と関連がありそうである。この詩のイアルがアバイアだとすると、アバイアの幸せは守られるべきなのだろう。それから、バルク書(シリア語バルク書53)に関しても、雨について書かれているのであるが、これとも関連があるだろうか。海、池、沼、河、泉、(湖)、魚はこれらの水のある場所において、その場所から生まれているのか。その水ゆえにその性質をもつとも考えられる。しかし、水の種類というとまた異なるだろうか。古くは動物の群がる水は争いの水となり、植物を異常に育てた水は命の水となった。アバイアの住む水は浄化の水だろうか。その他に調和の水、力の水、嘘の水、浮上の水、知恵の水、平常の水、乾きの水、がある。これらの水と地形に現れる水が関連するようである。そしてそれ毎に魚が居て、蛇もいる。水の問題は多くはこの二者と考えられる。しかし、ギリシャ語バルク書にはアダムを迷わせた葡萄の樹について書かれており、これがすなわちイザヤのたとえにある葡萄と同一の可能性があるので、この問題も踏まえる必要がある。また、婚礼の儀で葡萄酒が足りないならば水を葡萄酒に変えるたとえ、この点からも、想像されるが、愛ゆえの酔いは代えがたい事実となるが、愛のない酔いは垂れ流される本質として消え失せるという点で、酔いは愛のために水でも葡萄酒に匹敵するのであるが、これと似た作用で、逆にイザヤは葡萄酒に予言者が飲まれると書いているのである。この点は、すなわちハールート、マールートの言葉がよくわかる。また、デュオニュソスとバッカスの関係も然るべきものであり、すべての関連がオセアニアの話の中にあると考えられる。イブを欺いた蛇はおそらくこの問題に関して述べたのだと思う。

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マヌバダの花嫁

昔、ある美しい乙女があった。髪の縮れた中背の眼は星のように光っている、綺麗な乙女だった。近所の若者の間で大評判で、女仲間の内では羨ましくてならなかった。それでかねてからこの乙女を亡き者にしたいと考えていた乙女たちは、ある時寄り集まって「皆さん、貝捕りに行きましょう。そして帰るときに、あの人だけ後に残してくるの」と話し合っていた。
ある静かな朝であった。みな手に籠や網を持って、丸木舟の所へ来た。船の中は、若い乙女たちでにぎわっていた。間もなく沢山な貝が棲んでいる小島に着いた。美しい乙女を船の番として後に残しながら、他の乙女たちは、「あなたの籠もこちらへお出し。一緒に取って来てあげましょう」と言いながら、船を出て行った。嬉しそうに飛んで行くお友達の後ろ姿を見送って、美しい乙女も、一緒になって貝を掘りたくてならなかったが仕方なく残っていた。
人里離れたこの島には、まるで砂利敷き詰めたように、沢山な貝がいた。暫くの間に自分たちの籠は沢山になった。美しい乙女の籠にも、いっぱい入れてやったが、それは、みんな貝殻ばかりだった。やがて、めいめい重そうに籠を担ぎながら、帰ってくると、船は沖へと出た。乙女たちは、いろいろと愉快そうに話し合っていた。美しい乙女は、そっと自分の籠を覗いてみると、それは貝殻ばかりだった。だが、心まで美しい乙女は、怒るような様子もなく、かえって優しい声で「皆さん。もう一度、あの島にこぎつけて頂戴。これでは家へのお土産もないから少しは欲しいの」と言った。
乙女たちは、思う壺にはまって、嬉しさを包むようにしながら、船をもとの島へ漕ぎ戻した。悪だくみがあるとも知らない美しい乙女は、船が島に着くと、喜び勇んで飛び降りて、海岸伝いに貝を探し始めた。
押し寄せて来るさざ波は、綺麗な乙女の足を洗っている。正直な乙女は、お友達を待たせてはならないと、重そうに籠を担ぎながら、急いで帰って来た。けれど、あおの船の姿は、かき消されたように見えなくて、そこにはただ波ばかりが、打ち寄せていた。友達がいのない乙女たちは美しい乙女一人を残して、逃げ帰ってしまった。
か弱い乙女なのでどうすることもできず。砂の上に座ったまま、ただ泣き暮れていた。しかし、泣いているうちにお腹がすっかりすいたので、幸い来る時に盛って来たマンゴーを食べ、その種は、後の方に投げ捨てた。気が付くと今から満潮となるものと見え、島はだんだん潮の中に呑まれていった。今少し経ったら、この島は、まったく水の下になってしまうことだろう。乙女の身には、また、新しい危難が降りかかって来た。思いめぐらせた乙女は海岸をかけずり始めた。すると、今までは何もなかった海岸に、いつの間にか大きなマンゴーの木が一本、待っているように生えていた。それは、さっき捨てたあの種が急に成長したものであった。意外な助け船を見つけた乙女は、嬉しさのあまり、するすると木に駆け登った。その時はもう、潮は木の根元まで来ていた。
丁度この時、マヌバダという大きな魚捕り鷲が通りかかった。青海原に飽き切っている矢先一本の樹の上には天からでも降りたような美しい乙女が居るので、鷲は嬉しそうに羽ばたきした。そして頼りない乙女を遂にお嫁さんにすることになったので、早速ご機嫌とりに、まだびくびくしている魚を持ってきた。けれど折角の厚意も受けようとはしないで、乙女は嫌な顔をして「生の魚は嫌い」と言いながら、顔を横に背けた。鳥は火で焼いてやることもできないので、鳥の王の鷲でも、悲しさのあまりぼろぼろと、涙を流していた。
やがてそのうちに子供が生まれて乙女は、お母さんとなった。けれど人里離れたこの孤島に残された乙女は、故郷が恋しく、一日として家のことを忘れたことはなかった。子供も大きくなって、今では自由に海の上も飛べるほどになったので、お母さんはある日、「向こうの海岸に行ったら『ナツの木』が生えているから、その上にとまって、下を通る人を良く注意してみておいて。きっと喪服を来た一人の男がその下を通るに違いないから、その人は私のお父さんで、あなたのお祖父さん、そしてその喪服は私が居なくなったのを悲しんでいるためなの。そのお父さんを見つけたら、私のいるところをお話しして、ついでに料理鍋と、火のついた薪と、それから芋と、芋の皮を剥くための真珠貝の貝殻とを、貰って来て頂戴。」と言った。
子供は嬉しそうに海原を飛んで行った。そして間もなく、海岸の『ナツの木』の上に来た。しばらくすると、一人のみすぼらしい老人が通りかかった。体は、泥で真っ黒に汚れ、顎には黒くて細長い髯が生えていた。この姿はまさしく喪中である証だった。その片腕には、小枝で編んで腕輪をはめていた。この人がお祖父さんだと思った子供はその老人に話しかけた。老人は、、不思議に思いながら、立ち止まって耳を傾けた。悲しそうな老人は瞬く間に喜びの笑みを浮かべた。いなくなったものとあきらめていた娘がまだ生きていると聞いて、老人は涙目になっていた。老人は家に帰って急いで料理釜、真珠貝の殻、芋、火のついた薪を、丸木舟に積み込んだ。老人は、娘に会えるというので、体も心もそわそわしながら、先に立って空を飛んで行く子供の後をつけて行った。
やがて目的の島に着いた。老人と乙女とは抱き合ったまましばらくは言葉もなかった。今まで悲しい声で寄せていた波も、今日は嬉しそうに響いている。長い間旨い食べ物もなかったので、乙女は、持ってきた芋の料理を、息もつかないで、旨そうに食べてしまった。
食事が終わると、父娘三人は睦まじく船に乗って、帰途に着いた。子供は嬉しそうに空中を飛びながら、お供した。その夜は、囲炉裏の側でいろいろな物語で話が尽きなかった。すると子供は突然、「こうして一緒に座っているけれども、お祖父さんとお母さんは、人間だな。僕は、つまらない鳥だよ」と悲しそうな声を立てながら、翼を広げて闇の中を、どこへともなく飛んで行った。それっきり、その子供は帰って来なかった。
一度マヌバダのお嫁さんになった乙女には、まだこの村にいた頃、決まった夫があったのであった。その男は、辛抱強くも今日まで、乙女の帰るのを待っていたのであった。それで、二人は、すぐに結婚した。それからは、あの寂しい島で全心を捧げて乙女を愛していたマヌバダのことなどは、すっかり忘れてしまった。

解釈

メラネシアではなかなか見ない、美しい乙女の話であるが、女たちはこの乙女を島に置き去にしてしまう。さらには、乙女に結婚を決めた相手があった。この2点は、27の「天国を去った人」と似ている。また、27の話では帰ってから、置き去りにした仲間を皆焼き殺してしまうが、この話では、婚約相手と結婚しただけとなっている。この点で異なっているのは、単純に性差かもしれない。男では不可能であった事が女では可能だったのか。また、27の話では貝殻銭を求めているが、ここでは単に貝を取りに行っている。この点が何を換えているのかというには、まず、男が求めたのは生きるための物ではなく、価値感のためのもの。女が求めたのは貝(貝殻では役に立たないという点で食料と思われるが、乙女は取り残されたときに貝を食べたとは書いていない)だったことが明らかにされなければならない。また、鷲のマヌバダと結婚したとあり、子供の鷲は乙女が家に帰ると一人で飛んで行ったのは、マヌバダが乙女を救おうとしたためだと考えられる。

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大鷲退治

マヌバダは大鷲の名前である。その鷲に殺されたある男には、コトタベ、ケロケロという二人の子供があった。ある日のこと、二人は投石器を持って、大勢の友達と遊んでいた。二人は、友達に石を投げて喜んでいたので、他の子供たちは「人間の僕たちより、君のお父さんを殺した鳥にでも投げつけ給え」と言った。二人には友達のこの言葉がわからないので、走って帰って来て、お母さんにそれを尋ねた。お母さんは涙ながらに、マヌバダがお父さんを殺したことを、物語って聞かせた。そして、あの恐ろしい敵には、復讐するどころか、もう近寄るなと言った。けれど子供たちは「今に大きくなったら、きっと仇は討ってくれる」と殊勝に言ったので、お母さんは、人知れず喜んでいた。
そしてコトタベとケロケロは、大変丈夫な若者となった。憎いマヌバダを一時も早く退治して父の仇を取ろうと、二人は早くもその準備に取り掛かった。一隻の丸木舟には、投石器や棒などを十分に積み込み、二人はドラカエナの枝を、お母さんに渡しながら、「この枝の葉を見ていてください。この葉が揺り動いたときには、お母さんも踊ってください。もしこの葉が項垂れた時には、僕たちを弔ってください。その時こそは僕たちは、あの敵から殺されているのです。」と言って、暇乞いを告げた。
いよいよ二人は、マヌバダ退治に出発した。道々物騒なところを見つけては、山上目掛けて石を放ってマヌバダを誘い出そうと努めたが、その姿見えなかった。程なく高い崖の下へ来ると、その絶壁のずっと上の方に紛れもなくその巣が見えたので、二人は、かねて用意していた石を、投げつけた。俄然として見下ろしていたマヌバダは、立った二人で、しかも豆のように小さい人間が、自分に向かって石を投げ始めたのを見て、小癪だと思い、一度中天高く舞い上がり、矢のように二人の頭上目掛けて突進して来た。あたりが暗くなるまでに大きい翼、刀のように鋭い爪で襲い掛かったのだ。
豪胆な二人は、寸前の所を見計らって海に飛び込んだ。すると、マヌバダは勢いのまま堅い船体に嘴を突き刺してしまった。慌てた鷲は、羽ばたきをしながらそれを引き抜こうと焦ったが、釘付けにしたように、抜けなかった。羽ばたきの風で静かな海は急に白波が立って、荒れ狂い始めた。しかし、まだ嘴は一向に抜けなかった。これにはさすがに猛悪なマヌバダもだらりとなって、しばらく骨休みをしだした。船の両側の水中に身を潜めながら、息を殺してこの有様を狙っていたコトタベとケロケロとは、水中から頭を出すと、両方からその大きな翼に飛びついた。いつもなら、二人ぐらい、一羽ばたきで跳ね飛ばすマヌバダも、体が自由にならず、みすみすその翼を折られてしまった。こうして命に次いで大事な翼を折られてしまうと、まるで自ら上がった河童のように、どうすることもできなかった。元気づいた二人は、身を船の中に踊らせると、鷲を棒で叩き殺してしまった。
二人はあまりのことに、ただもう夢かと思うばかりに、抱き合って喜んだ。こうして丸木舟は、二人の兄妹と、マヌバダの大きい死骸とを載せて、家を指して走り始めた。船は思い荷物で沈みそうにもなったが、遂に無事村へ帰りつくことができた。
始め二人のかたき討ちの門出を見送ったお母さんは、片時もドラカエナの葉を放さないで、待っていた。すると、ちょうど強い風に吹かれるように、葉が震えだした。お母さんはこれを見ると、嬉しさが胸にこみあげて来て、一人でに踊りだした。近所の人は、この様を見て、「お婆さん、どうしたのかね、気でも狂ったのかね」と不思議そうに尋ねた。二人のお母さんは「子供たちがマヌバダを殺して、見事親の仇を討ったのだ。喜ばずにはいられないじゃないか」と言うと、村人たちは「それは偉いね。どうしてあの大きい曲者が退治されたのかな」と冷やかし半分に言った。
けれどもお母さんは、そんなことには気にも留めず、愉快そうに踊り続けていた。そのうちに丸木舟は、海岸へと着いたのであった。
二人が帰って来たというので村中は煮え返るような大騒ぎで、見る間に二人の周囲には、村人たちがたかって来た。みな、恐ろしい獲物を見ながら、二人の勇気をほめそやすもの、怪物退治を不思議がるものが噂を立てた。マヌバダの肉は焼いて、各部落に分けた。山地にすんでいる土人たちは、その頭をもらい受けた。それで今までもこの地方の土人たちは、出陣する前には無事帰ってくるようにと、祀ってあるこの頭に参拝していくのである。けれど海岸の土人たちは、マヌバダの横腹の肉が渡った。それで、戦場で攻撃の槍が、飛んでくるときには、傷を負わないように、必ずそれを横に避ける。こう話をしているのもこの筆者も海岸に住んでいる者であって、この話が真実であることは皆さん方にもわかると思うのである。筆者は幾度か激戦に出たけれども、身にはかすり傷も受けていないという。

解釈

マヌバダはガルラやフェニックスを思わせる。鳥に関するアジアの話にはこの手の鳳が現れるのであるが、その種類も多い。また、オーストラリアの悪さと、蛇と鷲の間の敵対関係に関してもこの鳥について関係があるようにも思う。この辺りは特に考究が必要と考えられる。無論北アメリカ、メキシコにも鳥についての逸話があり、このあたりがすべて関連していると思う。

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鶴の手柄

昔、ある夫婦の間に、二人の娘と一人の男の子がいた。その男の子というのは一番末で、ほんの生まれたてだった。ある日両親は、二人の娘に、その男の子を湯浴みさせ、食べ物を料理してやるように言いつけて畑へ行った。子供たちばかりになると、姉は妹に、「お母さんは、私たちに弟を殺してその肉をお料理しておくようにと言いつけたのね。では、すぐにお料理を始めるとしよう」と言った。すると、妹は、「そうじゃないよ、お母さんはそうは言わないよ」と答えた。
けれども姉は、そんなことには頓着なく、弟を殺して、その肉を料理した。そして鍋の中に入れて、煮ていた。
やがて両親は帰って来た。そして、この顛末を聞いて、二人を淋しいところへ叩き出してしまった。そこは、家もなければ食べ物もない、ただ見渡す限り山や森ばかりであった。二人は、どうなる物かと思うと悲しくて、冷たい野風に吹かれ泣いていた。しかし、お腹がすいても食べ物は見当たらず、泣いてばかりいても仕方がないので、あちこちを探しているうちに、蟋蟀(こおろぎ)や蜥蜴(とかげ)や、蛇などが見つかったので、大事に籠の中へ入れた。幾分元気づいて二人は、どこか家を見つけて、火で料理をしようと思って、重い足を引きずりながら、遠い道を歩いて行った。すると、漸く一軒の家が見当たった。その家の前には、体中にぶつぶつと腫物のできた気味悪い老人が座っていた。はっとした二人は空腹も何もかも忘れて立ちすくんでしまった。姉は、この恐ろしい老人の姿を、じろじろと見ながら、そっと妹に「お前は姉さんより若いから、姉さんの言うことを聞くわよね。あの老人の所へ行ってきておくれ」と耳打ちした。妹も恐ろしくてたまらないので、「嫌よ、お姉さんは私より年上でしょう。だからお姉さんこそ、行ってください。あの人は、私たちを食べてやろうと思っているのよ。うっかり側にでも近寄ったらそれこそ大変」と言って、姉の言うことを聞かなかった。けれども眼も暗み層にまで、お腹がすいた姉は、とうとう大胆に老人の側を通って、家の中へ入って行った。老人は気味悪い程黙ったまま、眼ばかりじろじろと動かしていた。自棄になった姉は火のついた薪を取ると溝鼠のようにこそこそと家から出ようとすると、誤って火のついた薪で老人の体に触った。これはしまったと仰天して、一散に駆け出そうとすると、今度は、腫物で膨れ上がった老人の足を踏みつけた。すると、一言も言わなかった老人は「ああ痛い、娘さん、そんなにひどい目に合わせたらこのお爺さんの寿命はなくなるよ」と、怒るのかと思いきや、顔にも似つかない優しい言葉をかけた。娘は、騙されるとも知らないで、「ごめんなさい。お爺さんを殺そうなんてもってのほかです。」と答えた。老人は「あなたお一人?またはお連れでもおありなのか」と言った。姉は「お爺さん。私一人なのよ。けどね、海岸には妹が待っています」と隠さず申した。老人は、「そりゃ可哀想だ。早く行って、連れておいでなさい。汚い家だが、遠慮はいらないから」と言った。聞けば聞くほどお爺さんの言葉は優しくて、人里離れたこの山奥をさまよっている乙女には、まるで救い主のように聞こえた。急いで飛んで行った姉は、まもなく妹と一緒に蛇などを持って来た。老人は、そろそろ本性を現し始めた。可憐らしい乙女たちの姿を見ると、前のやさしさとは打って変わって乱暴な言葉で、「おい、その籠こちらにもらおう」というと、いきなり勝手に、籠の中に手を差し込んで思うだけつかみだすと、残りは横の方に放った。空腹抱えた二人は、たった一匹の蟋蟀も食べさせてもらえないばかりか、芋畑に引っ張られて行って、可哀想なほど働かせられた。
こうして毎日、激しい労働に血が滲むような苦しい思いをした姉は、七日目のこと逃げ出す工夫をして、妹にそっと明かした。そして夕方を待ち受けて、畑で働いている老人の側に来て、「お爺さん、お腹がすくでしょう。妹と家に帰って、お料理をしてまいりますね」と言葉巧みに話しかけた。
上手く老人を口車に乗せた姉は、妹と一緒に取った食べ物を持って、急ぎ帰って来た。そしてこれからの旅の用意にと、その食べ物の中から盗み取って、そっと籠の中に忍ばせた。もし料理が済んでも老人が帰って来なかったら、二人はそれを食べて、そして籠を持って逃げる算段であった。幸いまだ老人が帰って来ないうちに、料理が出来上がったので、二人は腹一杯それを食べると、残りもまた籠に詰めた。こうして腹の用意が整うと、二人は、料理したのと生のとをそれぞれ詰め込んだ二つの籠を、一つずつ首から提げて、海岸伝いに一散に逃げ出した。
そんなこととは知らない老人は、まだせっせと山腹の畑で働いていた。今日は珍しく精出したため、棒の先も鈍くなったので、しばらく耕すのをやめて、石斧でその先を削り始めた。すると手元が狂って斧が滑って、自分の手に切り込んだ。傷口からは、たらたらと血が流れ始めた。老人はこれを見て、「これは魔法だな」と言った。けれど血は、なかなか止まりそうにないので、それは、魔法のためではないということが分かった。すると老人は、また「では誰か、魔法をかけおったな」と言った。血はどろどろとまだ続いて流れ出ていた。老人は思わず、「わかった。さては、あの娘ら逃げたな」と叫んだ。それと同時に、不思議にもあの傷口は閉じて、あれほど流れていた血は、止まってしまった。老人は、日頃の体にも似ず、まるで別人のように勢いよく山を下って、娘たちの後をまっしぐらに追いかけた。見れば意外にも、老人はすぐ後に迫っていた。姉妹は、一生懸命になって、か弱い足を速めた。すると行く先に当たって、ウアパニパニという鶴が居た。二人は、何よりの助けの神と思って、泣きつくように「どうぞ、お願いですからお助けください。悪魔が、後から追ってきます」と息せき切って叫びかけた。これを聞くと、ウアパニパニも、黙ってはいられないので、「よろしい、心配なさるな。私と一緒にいれば、もう大丈夫だよ」と言った。その時老人は、もういまにも姉妹を捕まえようとまでに、近づいていた。この鶴の声を聞くと老人は苦し紛れに、「おい、エグベダ君、一人の方は、君にあげるから、他の方を僕にくれないか」と呼び掛けた。ウアパニパニの考え方ひとつで、二人の姉妹たちの運命は定まるのです。けれどウアパニパニは、老人の言葉には頓着もしないで、二人に行く先を尋ねた。二人は、もう一生懸命になって、「後生ですから、私たちの故郷へ連れて行ってくださいね。私たちの家は、白肉椰子樹の下にあります。もうあの悪魔はすぐそこに来ました。早く、早く」と急き立てた。老人は石を投げると届くところまで迫って来た。いま、一息で 姉妹たちは、またあの老人の魔の手に捕えられてしまうのです。ウアパニパニは、突然大口開いて、二人を飲み込むが早いか、驚く老人を尻目にかけて、頭上高く舞い上がった。奪い去られるのを目前に老人は、自分も続けて飛びたいとばかりに手を羽ばたかせて、「やりおった、忌々しい奴だ」と言って、残念そうに、地団太踏んだ。ウアパニパニは、その大きな翼を広く振りながら、悠々と羽ばたいて行った。程なくウアパニパニは舞い降りた。二人は、何かお礼をしなければならないと思って、家中めぼしいものを探したが、親切なウアパニパニは、何も受け取ろうとはしないで、ただ椰子の実でこしらえた酒盃(さかずき)一つを貰うと、自分の巣指して帰って行った。それっきり、もうその鶴を見ることはなかった。
丁度そのときお父さんは、いなくなった子供たちを供養するために、畑に食べ物を取りに行っていたのであった。というのは、姉妹はとっくの昔に死んでしまったものだと断念していたからだった。お父さんは、家の中へ入ってくると、掘って来た芋を、力なくどっかと下ろした。今まで部屋の隅に隠れていた二人は、突然その前に走り出した。一時の腹立ちまぎれに追い出したお父さんは、二人が居なくなってからというものは、嘆いてばかりいた。いまこうして無事二人の美しい顔を目の前に見ると、言葉もなく二人に抱き着いた。悲しみの家にも、また喜びの時が来た。

解釈

まず、弟を殺したことはト・カビナナとト・カルブブの話(メラネシア20)から影響を受けていることがわかる。次に老人は魔法に長けていたようである。すなわち自分の行為が誤る点から何か別のことが起きていることを察知しているからである。この点で、血がもとに戻るというのは、運命が変わったからだと考えられる。老人は自分の運命を統べていたのだろうか。その運命が変わったら死んでしまうということだろうと思う。しかし、なぜメラネシアでこのような技が使われていたのだろうか。ただ、この話では、姉妹が弟を殺した罪に関してナラティブが現れていないようにも思う。つまり、鶴はどちらか一方ではなく両方とも助けているのである。そして、鶴は見返りに椰子の殻で作った酒盃を貰っている。これは聖杯とも関係があるように思う。また、北アメリカの神話2の「熊と羚羊」の話に現れる鶴も盃を持っているのである。この酒盃がここでの話で手に入れたものかどうか定かではないが、鶴と酒盃が関係あるというのは事実であると考えられる。

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死人の歌

昔、ある人が、魔法使いとは知らないで、ある女と結婚した。その夫は夜休む時、家の入口の所に寝転んで眠る習慣であった。また、魔法使いのお嫁さんは、魔法力で人を取り殺すため、夜になると決まりきったように出て行った。けれども入り口には夫が寝ているので、夫の寝息をうかがってそっと壁に登って、風のように屋根裏の穴から抜け出ることにしていた。壁に登り始めると、そのたびごとに夫は毎夜苦しそうに、唸り声を出した。そしてあくる朝になっては、昨晩苦しかったことを告げるのであった。お嫁さんは平気な顔で、それは夫の姉妹たちが魔法をかけるためだと言って、すましていた。このことがいつとなく夫の姉妹たちの耳に入ると、みな承知せず、姉妹たちもまた魔法使いであったが、実の兄を魔法で苦しめることなどしなかった。皆の疑いは一斉に怪しい魔法使いのお嫁さんの上に注がれた。そして、「何とかしてお兄さんに知らせてあげたいけれど、義理の姉さんだと言っても信じてくれないでしょうし、やはりいい時機を待たなければならない。そのうちあの魔法使いの化けの皮は現れるよ」と言っていた。
ある日、そのお嫁さんや大勢の魔法使いが集まって、踊ろうと考えて魔法をかけると、雨がその周囲に降り出した。その有様はガラスの簾(すだれ)が、魔法使いたちを取り巻いて、天から下がっているようだった。雨はだんだん激しくなり、その音は太鼓のようであった。魔法使いどもはその雨の内側で「トロア」という死の歌を歌いながら、愉快そうに踊り始めた。
この有様を見た夫の妹二人は、お嫁さんの化けの皮をはごうと、兄さんを探しに行った。兄さんは、羊角蕉(ようかくしょう)の幹に立てかけた梯子(はしご)に登って、熟した実を鳥から食べられないように、一つずつ葉で包んでいるところだった。妹たちは、やっとその姿を見つけると、急いでその傍に走り寄って、「義理の姉さんは、ひどい方ですね、私たちが兄さんを苦しめるなんて言って。あの雨が降っているところを見てください。あの魔法使いたちの間に義理の姉さんの姿も見えるでしょう」と告げた。怪しいと思った夫は、指さされた方向を、木の上から瞬きもしないで眺め始めた。二人の妹たちも、もしやあの魔法使いたちが、兄さんの姿を見つけはしないかと心配して、その木の横に、そのままじっと立っていた。降り注ぐ雨に和して、魔法使いたちの歌うトロアの歌は、手に取るようにはっきりと聞こえてくる。
やがて歌が終わり、雨もやむと、魔法使いたちは、自分の家指して帰って行った。あまり不思議な有様を見てびっくりしていた夫は、身動きもしないで、じっと木の上に隠れていたが、魔法使いたちの姿が一人も見えなくなると、おりを見澄まして、こっそり家に帰って来た。さっき聞いた不思議なあの「トロア」の歌は、何だか耳の奥で絶えず響いているような気がした。そうかと思えば、あの踊り狂っていた魔法使いたちの姿が、まだ目に見える様に、浮かんでくる気もした。妙な気持ちになった夫は、ついあの聞きかじった歌に引き込まれて、歌いたくなってきた。けれど、もしお嫁さんに聞かれたら、今日隠れて眺めていたことが、ばれてしまうので、無理に辛抱していた。
明くる日夫は、お嫁さんに向かって、「今日は、畑に働きに行ってはどうだい。私は、家の留守番をしながら、子供の守りをしているよ。夕方帰って来た時には、村の入口で声をかけてくれ。妻の帰りを家にいる夫が知らないというのもおかしな話だから」と言った。お嫁さんは、言われるままにすぐ出て行った。お嫁さんが居なくなると、夫は待ってましたとばかりに、子を腕であやしながら、「トロア」の歌を歌い始めた。そのうちに子供が眠りについてしまった頃には、聞きかじりの歌も、ほとんど覚えてしまった。すると突然お嫁さんの声が、表から聞こえて来たので、慌てて何食わぬ顔をして、お嫁さんを迎えた。その明くる日も夫は同じようなことを言って、お嫁さんを畑にやった。そして、お嫁さんの声がすると、「トロア」の歌をやめて、また黙ったまま迎えた。けれドその明くるひもまた、同じことを言ったので、お嫁さんは怪しく思って、「おかしいよ、村の入口へ来れば、声をかけなければならないって、さては夫は内緒で何かしているに違いない。今日は声もかけないで、外帰って来てやろう」と考えながら出て行った。
お嫁さんの姿が見えなくなると、夫はいつものように、子供を抱いて、「トロア」の歌を歌いだした。子供は早くも眠りについてしまったので、袋の寝床へ寝かした。そして雨の音に似せるために空竹を手に持って、地に叩きつけてはそれで地上を掻いて、その音に合わせながら、夢中になって歌っていた。やがて、お嫁さんがこっそり帰って来た。夢中になった夫は、それに気付きもしないで、やはり空竹の音に合わせて歌い続けていた。ふと目を上げると、意外にもそこにはお嫁さんが立っていたので、夫は驚きの余り、呆然としてしまった。するとお嫁さんは、担いでいた芋の袋を地において、黙ったまま出て行った。その夜お嫁さんは、夫に魔法をかけた。魔法にあてられた夫は病床に伏したまま、日ごとに重くなるばかりで遂に死んでしまった。こうして死んだ夫は、冥土への道すがら、他の亡者と同じように、もう一度「トロア」を歌って行った。
今日ワミラ村で、この呪いの歌を歌うことのできる人は、ただの一人しかいない。それは、タウケロボという人である。この人が年を取って、この世を去るというときには、自分がお父さんから教わったのと同じように、その子供にこの歌を授ける。もちろん、この歌を歌うことのできた人は、タウケロボのお父さんより他になかったのである。

解釈

まず、メラネシアでは魔法というキーワードがよく出て来る。このことがペルシャやその他の地域で言われる幻と同一か、さらには、メラネシアが原因でそのような幻を見ることになるのかもしれない。ここでは死の歌「トロア」が歌われている。死の歌とはどんな歌だろうか。これはマジカントとは全く異なる、むしろ真逆のものかもしれない。そうすると、マジカントに対抗するような勢力がこの地域にはあったのかもしれない。踊り好きのお婆さんなど、この地域では音楽が好まれているようである。これを加味すると美しい歌と死の歌と対立しているような気もする。また、なぜ魔法を使えるかというに、ここにはやはり愛の悪用が見出される。というのもメラネシアでは大変原始的な婚姻関係を結んでいるように思われるからである。これによって女の罪も助長されているのではないだろうか、という不安を含む疑問もある。しかし、一方では厳しい環境でも家族愛を見出せる話も存在している。この葛藤の正体を掴むのが非常に難しい。これも海ゆえの問題なのか。魚と蛇の神々が多く、また善意と悪意を象徴する二人の神格も存在している点で、この問題は一際際立っているように思う。聖書との関連も見いだせないこともないため、このあたりの解釈は慎重に進めたい。

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妖精の王様

昔ある人が旅をしていると、ワオイというおいしい草を見つけた。まだ若くて柔らかく食べるには早すぎると思ったため、その上に草の結んだのを結わえて目印として、帰って行った。というのは成長する頃を見計らって、また取りに来ようと思ったためだった。
それから数日のこと、妖精どもの王様が、ここを通り合わせた。見事はワオイを見つけた王様は、それが欲しくてならなかったので、結わえてつけてある目印を取り外して、側の草の中へ隠した。そしてその代わりに、一匹のみみずを捕えて、ワオイの幹の周囲に結び付けて置いた。
ある日男は、ふと思いついたように、ちょうどよいころと考え、取ろうと思っていたワオイを掘って来て、今晩のご馳走にしようと独り言を言った。やがて男は藪の中を探しあぐんだ末、やっとそれを見つけた。青々としていたあの葉も、もう大分萎んでしまっているくらい、見事に成長していた。男は喜んで急いで掘り始めた。もう少しで根ごと掘りあがるという所でひょいと横を振り向くと、そこには、腹立たしそうな顔をした妖精の王様が立っていた。「それなる男、お前はここで一隊何をしておるのだ。それなるワオイに結び付けたみみずが、見えぬか。この大泥棒め、思い知らせてくれようぞ」と王様は睨みつけながら言った。
男も、「これは、意外なことをおっしゃる。目印に結んであるならそれは私の物だ。これを見つけて、私が草を結んだのを結わえつけて置いてから、もうかなりになる。あの時まだ青々としていた新芽の葉さえ、この通り萎んでしまっている。私の目印も大方萎んでしまったが、それとも草の中へでも落ちてしまったのだろう。」と言って引かなかった。妖精の王様は、威猛高(いもうだか)になって、「なんと。嘘つくにおいては、容赦はせぬ。これを見ろ。これこそ、私が付けておいた誠の目印だ。そしてお前のはどこにある」と叱りつけるように言いながら、腰をかがめて、みみずを拾い上げた。「私のって、そりゃどこにあるか、まだわかりませんよ」と男は答えた。王様は、いよいよ気を急き立てて、「さあ、そこを退け、そこにいては邪魔になる」と言った。男も向かっ腹を立てて、「何をいうのだ、俺のワオイを掘るのに、何の支障があるものか、そういうお前さんこそ、これに触れてはもらいますまい」と答えた。
王様は、しばらく黙っていたが、それから少し言葉を和らげて、「お前さんは、なかなか勇敢だ。定めし名ある首領であろう。いかがだ、お前さんの家来たちを、ここに読んで見せてくれては」と言った。男には、家来名kな、到底あろうはずはなく、また友達と言っても、数えるほどしかなかった。呼んだって誰も来るはずはないとはわかっていたけれども、こういわれてみると、このまま尻込みもできず、男は大声で呼んだ。あたりは鎮まりかえっていた。もう一度読んだが聞こえるものは、反響の音ばかりだった。王様は「ふん、まあ慌てずとも静かにしているがいい。いま私が、家来どもを呼んでみせよう」と言いながら、ただの一度、一声高く叫んだ。するとどうでしょう。王様の声に応じて、草の中や洞穴、谷間や大木の頂上からも、妖精たちの声が、一斉に響いてきた。王様は「おい、聞いたか、あれはみな私の家来たちの声だ。さあ、お前の家来はどこにいる」と王様は、さも誇らしげに言った。
男は一言雄答えないで、ワオイを引き抜いた。これを見た王様は怒り、飛びつきざまに、それを男の手から奪い取ろうとした。二人は、一本のワオイの両端を握って、一生懸命に争っていた。命懸けの男の奮闘に、どうやら王様は、形勢が危うくなったので、家来たちを呼び出した。すると草の中や洞穴、谷間や大木の頂上から、大勢の家来たちが出て来て、男を捕えてしまった。さすがに気丈な男も多勢には敵わず、身動きもできないほどに抑えられた。
到底力では及ばないと思った男は、自分を押さえつけている妖精たちにそっと、「私を括るなら、草でアイウマウマラ樹の棒に縛って遅れ」とささやいた。男は、この木が大変折れやすいということを知っていたので、巧く知恵をめぐらしたのであった。妖精どもは、その言葉通り、男を草でアイウマウマラの棒に縛り付けて、それを担ぎながら自分たちの洞穴指して急いだ。けれども少しばかり行ったと思う頃、草が切れて、男は棒の上から落ちた。それで変わりの草を探し始めた。馬鹿な妖精たちは、丈夫な葛や、パンダヌス樹の根があるのには、気づかなかった。そのうちに草で男を括りつけると、また急いで歩き出した。すると今度は、あのアイウマウマラの棒が真二つに折れて、男は地面に落ちた。慌てた妖精どもは、男などそっちのけにして、新しい棒を探し始めた。この分では、夜が明けても見つかりそうに思われなかった。
それからまた、漸くの事で男を縛り付け、担いで行った。するとまた草が切れ、その次には、アイウマウマラの棒が折れ、また探し始めた。いつの間にか、夜明けも近くなった。妖精どもの棲家までには、まだ大分あり、こうして計画は見事に当たりそうなので、男は内心微笑を洩らしていた。
遂に夜は、ほのぼのと明け始めた。妖精どもは、東の空が白で来ると申し合わせたように、我勝にと洞穴指して逃げ帰った。王様は、とうの昔から待ち焦がれていた。帰って来た妖精たちは、黙ったまま、恐れ、その足元にひれ伏した。一人取り残された男は、危ないところを逃れて帰って来た。家に着くと、いかにも疲れたように、「さあ、どっさりと食べ物の用意をして、私を秀温めておくれよ。ああ、えらい目に遭った。早くお腹を膨らませ、体を暖かくして休みたい」とお嫁さんに言いつけた。そしてその男は、明くる日までは前後も忘れて死んだように眠った。目が覚めると、昨日来のことが頭に残っていて、癪にさわってならなかった。一つあの王様に一泡吹かせてやろうと思って、友達を呼び集めた。手に槍と松明をかざした友達は、やがて男に導かれながら、妖精どもや王様が住んでいる洞穴の前に来た。
もし妖精どもが、燻べ殺されていなかったら、人間というものは、いつまでもあのワオイのご馳走は食べることができなかっただろう。とうのは、ワオイを取りに行けば、この人のように、妖精たちからひどい目に遭わされたであろうからである。

解釈

このワオイと言うのはガオゲレナやソーマ、またはクパーラなどの特別な草と考えられる。または大麻でもあるかもしれない。(しかしここでは一言にガオケレナが近いと考えられる、すなわちハオマのことだろう)そして、これを妖精の王様が邪魔するということである。このことが示しているのは永遠の命を求める者がこの妖精によって狙われるということを示している。これはギルガメシュ神話でも見受けられる「生命の草」である。しかし、この草をめぐって妖精の王様が介入するということは、この草が鏡に映って、それはいずれ妖精によって見つけられるということだと考えられる。この「生命の草」については、当人の命の実であると考えられるが、これが鏡に映るということが、他人によってそれを見出される可能性に対する警告を含んでいる。つまりこれゆえに本質を介して、経済学に見られる物資の分配の問題が引き起こされている。これをメタファーとして隠喩の内に持つことが永遠的客体において可能であるかどうかが問われなければならない。そして、おそらく、妖精ゆえにこの証明までは自分の実でさえ手に入れることができないのかもしれない。ということは、この生命の草が鏡写しとなり世界に表出することに関して、神は罰を与えたのかもしれない。しかし、単純に考えると、他人の物を奪うということはしてはならないことである。この原則は天上界でも同様であるし、その所有に関して不正が認められないならば神はそれを奪うことはしないはずである。そして、その判断を人間は誤るということである。生命の草はおそらくガオケレナと言われる樹の周辺に生えるものであり、これは人間でいう愛の指標の周辺を指すと考えられる。すなわち、認識の内には一定の不変性が担保されているが、この指標周辺ではそれが担保されていない。これは認識しうるような感じの内に決して一定の不変性を得ず、その時にしか得られない。そして、それを得ようとするものが住む空間にありうるのである。

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若い雄鶏

ずっと昔、マガバラ山地麓のディリウナという所には、鳥というすべての鳥どもが住んでいた。が、今では、ディリウナについては、何も残っていない。ただ昔、鳥どもが集まって相談し合ったと言われている、円形の石囲いの場所があるだけである。
ある晩、鳥どもが集まって、面白そうに踊っていた。あまり興に乗って、踊りぬいたため、すっかり焚火が消えてしまったのも気づかないで、明くる朝になって目を覚ますと、朝風の冷たさに震えていた。
ここにココレレコという雄鶏がいた。皆が嘆いているさまを見て、勇気を振るって新しい火を、どこからか持って来てやろうと決心した。そして、すぐさま朝風を切りながら、駆け上ると、野を越え、山を越え、谷を渡り、変わっていく下界の様を眺めながら、どんどんと飛んで行った。そのうちに飛びつかれたので、岩上の藪を指して降り始めた。けれどもあまり激しい勢いで降りすぎたため、両足は堅い岩の中へ、突っ込んだ。いまでもこの足跡は残っている。その夜は、そこに休んだ。
明くる日はまた飛行を続けた。そして間もなく、海の中へ長く突き出たカイエララ半島の上空に来た。見ると人里離れた一軒家に、天女が舞い下ったのではないかと思われるほどの乙女が、ただ一人いた。その綺麗な耳には、房になったバナナのように、耳輪が下がっていた。その歯は、野生のバナナの種のように、真っ黒く光っている。檳榔子を食べるためだと思われた。
突然羽ばたきの音が聞こえるのでふと見上げた乙女は、美しいココレレコの姿を一目見ただけで、すっかり心を奪われてしまった。それで降りて来るところを、どうかして捕えて、放すまいと待ち構えていた。けれども風の表に舞い降りて来たココレレコは、燃えている薪を、炉の中から取るが早いか、巧みに身を翻してわき目もふらず、また風のようにもと来た道を引き返そうとした。乙女は、懸命になって声を震わせながら、「ちょっとお明かしなさい。教えて下さい。あなたの住居はどこですか」と叫び続けた。ココレレコは、「この岬をめぐると、やがて太鼓の音や法螺貝の響きが聞こえて来る。それをたどって行くと私の村に着きます」と大きく羽を拡げながら、早口に答えた。
可哀想にココレレコは、泣いている乙女を尻目に、とうとう飛んで行ってしまった。間もなく両親は帰って来た。乙女は、泣きながら、このことを両親に告げた。そしてお願いして丸木舟に乗り、ココレレコ探しに出立したのだった。長旅の用意には、船の横板の上に、十分な食料が積んであった。その中には、ココレレコを見つけた時、誘い寄せるための椰子の実や、捕まえた時に入れる籠などもあった。丸木舟は、いつの間にか岬を巡ってしまった。すると乙女は太鼓の音が聞こえて、金切り声で叫んだ。この時三人は、ラモガラ村についているのであった。しかしそこにはココレレコの家はなかった。遠い耳を傾けて聞いていたお父さんは、あれは子供の悪戯で、踊りもしていない、と答えた。
船は、また岸を離れて、沖へと出た。そのうちにはとうとう日も暮れて、海上は一面の闇となった。お母さんはなんだか気味が悪くて、鳥は、嘘をついたのだよ、と言った。けれども乙女は、「お母さんは、あの音が聞こえませんか。ばんばんと鳴っている。まあ、嬉しい。あのココレレコの家はすぐそこよ」と言いながら、嬉しさに踊りだした。
その時はディリウナ村についていたのであった。薄明りを透かして見ると、沢山な鳥どもが椰子の樹の下で踊っていた。その夜は、船の中で明かした。というのは、この暗さではどれがココレレコか、さっぱりわからなかったからだった。
海上が白みがかってくると、すがすがしい朝風は、さっと山の上から吹き降ろして来た。星が一つ一つ消えていくに従って、カイエララの方からは、夜が明けて来た。すると小鳥は、目覚め始めた。まず一番に起きたのは、ビナマという犀鳥(つのどり)であった。お父さんはそれを見て、思いを賭けているのはあの鳥か、と尋ねた。娘は違うと答えた。それから鸚鵡(おうむ)、黒鸚鵡、鶺鴒(せきれい)と、次々に飛んで来た。最後に来たのが、極楽鳥であった。お父さんはこれを見て、確かにあの鳥だろうと尋ねた。乙女は誇らしげに頭を振って、もっと美しい鳥だ、と答えた。長らくの間待っていた甲斐があって、いよいよ鳥の王様ココレレコは、ゆったりとして飛んできた。乙女はその美しい姿を見ると、躍り上がるようにして、「私はどれほどあなたをお待ちしたでしょう。ここには、あなたのために盛って来た椰子の実があります。降りて来て食べて頂戴」と言って、椰子の実を差し出した。ココレレコは、「いや、これはありがとう、すまないが、ここまで持って来てください」と言って、近づいてこようとはしなかった。椰子の実は大の好物だが、ココレレコも鳥の王様、そう軽々しく女の言葉に従わないのであった。乙女は、どうかして捕えようと思って、「ああ、それは持って行ってあげたいけど、そこには、行かれないの。お願い、その水際まででも降りて来て頂戴」と答えた。
ココレレコは暫く考えた。この乙女はほんの旅人で、今朝はここにいるけれども、夜にはまたどこかへ行ってしまうのだなと考えたので、静かに丸木舟の方へ近づいてきた。
運の定まるときが、とうとう来た。何も知らないでココレレコが腰を曲げた途端、頭からは、思い籠をかぶせられた。喜んだ乙女は、それを持って、カイエララに帰って来た。こうして鶏というものは、人の家に飼われるようになったのであった。
王様の姿が見えなくなってからというものは、ディリウナの村では、大騒ぎとなり、村は嘆きの声で満たされた。王様を呼ぶ声は鳴き声と混ざって煮え返っていた。そしてそれっきり、ディリウナの村はなくなった。犀鳥(つのどり)は、木の空洞へと逃げて行って、今日でもそこに暮らしている。鶉(うずら)は、草叢へ逃げ込んだ。千鳥は海辺へ住もうと言って、海辺へ行った。その他いろいろな鳥は、みな住み慣れたディリウナ村を出て、各々藪の中に巣をつくるようになったのであった。あれほど賑やかであった鳥の村ディリウナも、こうしていまでは「ヌマ・ププ」すなわち「荒地」と言われるようになったのだ。

解釈

まず、注目すべきは鳥の集まって相談したという「円形の石囲い」のことである。これはイギリスの円卓のことと考えられる。この点で、イブリスは神の承認を得ている。すなわち、この乙女は知らずともこの鳥の村がよくないことに対してそれを打ち消すことに貢献したと考えられる。
マステマとイブリスの関係においてしばしば善意と悪意のような対立を見出す。ここで乙女は悪意に傾いているが、鳥は善意に傾いているようである。これは鳥が火を盗んだ事について善意に属する者が火を扱えず、また、このような悪意を推奨することができないという点で、乙女によって騙されたのである。そして、鳥の村が荒地となったことはまずベヒモスとの関係、そして、マジカントがこの鳥の村である可能性が考えられる。この点については吟味が必要である。

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冥土のお嫁

人間というものは死んでからどこへ行くのだろう。こう聞かれると誰も答えることができない。また、いままで随分いろいろと多くの人が、冥土、すなわちイオロアへの道を探したけれど、誰も知らないのだった。けれどただ一人その道を知っている人がいた。この人について筆者は話す。

その男は、ワミラとディバリとの間を貫流して海へ注いでいるウルアム河の水源の丘に住んでいた。可愛いお嫁さんには死に別れ、独り身になった男は、寂しさに思い出して、嘆いていたが、いつまでも泣いてばかりいることもできず、命日が来るとお嫁さんの霊魂を慰めてやろうと思って、法事のご馳走をつくるため、犬を引き連れてクスクス狩に出掛けた。
クスクスという獣は、昼間は休んでいて、夕風が木の間を吹き始めるころから、食物をあさるために出て来る。狩をするにはこの時刻から始めなければならなかった。男は、夕日の沈みかけるのを待ち受けて、出掛けた。間もなく一匹捕れたけれど、犬のほかにお供はなく、仕方なくそれは傍の木に吊るして、奥へと進んで行った。するとまた一匹捕れ、これもまた気に吊るして、そして奥へと進んで行った。そのうちにまた一匹飛び出て来た。犬は、隙も見せずその後を追った。追い詰められたクスクスは、突然ある地下の洞穴へ飛び込んだ。この奇怪な穴は冥土の入口であり、クスクスの棲家は、その冥土にあったのだった。
男が洞穴の口に駆け付けた時には、もう犬もその穴の中へと、飛び込んでいた。男は、犬の身の上が心配でならないので、中の有様を探ってみようと、入口にあった大石を取って、中に投げ込んだ。すると石は、音を立てながら、勢いよく転げて行った。好奇心にそそられた男は、その後をのぞき込んでみると、遥か下の方に、椰子の樹が見えたので、そこには村があると男は独り言を言った。男もその穴の中へ飛び込んだ。そしてだんだんとたどって行くと、やがて犬の姿も見つかった。ここは冥土なので、昼間は、亡者の骨が、あちこちとだらしなく取り散らされているが、夕方になると、同じ体の分だけがあちこちから集まって来て、結びつくのだった。こうして蘇った亡者たちは、明くる日の夜明けまでは生きているのであった。男が迷い込んだ時は、ちょうどこの骨が結びついて、亡者たちがのこのこと生き返るときであった。いち早く蘇生したこの男のお嫁さんは、まだ地上にいた時と同じように散歩していると、ふと夫の姿が目について、「さては、夫も死んで、私の所にきたのだな」と思っていた。
そしてつかつかと夫の側に近寄ってくるなり、いやというほど夫の腕を摘まんだ。つまんだところが赤くなったのを見て、「あなたはまだ死んでいないのね。いったいまあ、どうしてここまで来られたの」と不思議そうに尋ねた。夫は一部始終を物語った。お嫁さんは、いよいよ驚いて、「あなた、犬はしっかりと抱えて、離さないようにね。まだそこいらには、沢山人間の骨が散らばっているから。もし犬が食べるようなことがあったら、どうなさいます。命はありませんよ」と言った。それからお嫁さんは、夫を自分の家へ連れて来て、静かに休ませ、犬も吼えないようにした。というのは、今亡者たちが、起き上がるときだったからであった。夫は言われるままに、おとなしく横になっていたものの、珍しくてたまらないので、そっと亡者が自分の骨を組み立てているさまを眺めていた。「これは俺の腿の骨だ」「ここにおれの腕骨がある」などと、気味悪い声が薄闇の中から聞こえて来る。そのうちに夜になると、生き返った亡者たちは、囃し立てる太鼓の音に合わせながら、愉快そうに踊り始めた。見る者聞くもの、すべてが珍しいばかりでなく、いかにも面白そうな有様に、男もつい釣られて、こわごわながらそっと家から覗いていた。お嫁さんは、家の中にいて、心配そうにじっと夫を監視していた。お嫁さんがそばにいると思うと、冥土の恐ろしさも忘れていよいよ乗気になった夫は、「おい、お前を失ってからという者は、この俺は胸も滾るほどに、それはそれは悲しかったよ」と叫んだ。はっと思ったお嫁さんは、亡者たちに見つかりはしないかとひやひやして、「ここにいてはいけません。もし亡者たちが、あなたを見つけたら、どうなさいます。亡者たちは食い下ってまいりますよ。さあ、早くお逃げなさい」とささやいた。夫はこれを聞いて、悲しそうな目つきで「ほんの今、お前と会って、やれ嬉しやと思ったばかりなのに、どうしてすぐにお前と離れることができる者か」と言った。妻は気を苛立たせながら「なにを言うのです。早くお逃げなさい。そんなに会いたいのなら、今日だけは帰って頂戴よ。そして三日後、またおいでなさいね。ここでおまちしていますから。さあ、一刻の猶予はなりません。早く早く」と急き立てた。夫は、ようやく納得して立ち上がった。けれど冥土の土産はないかと、行く行く椰子の実をもぎ取ったり、芳草(ほうそう)を摘みとったり、野生の「しなの木」の実を取ったりしながら、道草を食っていた。早くもその男の姿を見とがめた亡者たちは、氷のような冷たい手で、折角男が取っていた物を、みんな奪い返してしまった。気味悪い亡者たちから取り囲まれた男は、死に物狂いになってその囲みを破ると、命からがら逃げだした。穴の入口まで追っかけて来た亡者たちはとうとう見逃してしまったので、残念で堪らず、もう二度と人間なんか入れるものかと、大石で堅く閉めてしまったのであった。そして三日の後、お嫁さんの顔見たさに再び出掛けた男は、入口もわからないまますごすごと帰って来た。それからというものは今日まで、まだ誰も冥土の入口を見つけた者はない。しかし、あの入口をふさいだ石さえなかったら、私たちはいまでも冥土へ行って、死んだ人々と話をすることができたでしょう。

解釈

死後の世界を表す神話は多い。ここでは北アメリカの神話伝説23の話が近い世界を表している。ポリネシアにも冥府の世界についての話がある。しかし、ここではあまり触れない。そして本題のこの話だが、まずは男の妻が死んだという所から始まっている。ここで人間の認識が愛から死へ変わるきっかけを得ているが、おそらく死を先駆した状態で見える世界とは全く異なる、黄泉と呼ばれる世界であることは確かである。ここでは男は妻の死を乗り越えて、自らの生きる意味を知り一人で生きなければならなかったことが示唆されているようである。しかし、これができない場合にはここにある通り、冥土の世界の入口と呼ばれる洞穴、すなわち今では「大石でふさがれた場所」が開くことがあると考えられる。そして、キリストが死後入れられた洞窟もここに由来していると考えられるのである。そして、この大石はおそらく、オパニムが置いたのだということが、示された。この点からも、キリストはラーの通った冥土への道についての贖いを含む、救いをもたらした。キリストの味方をした、それまで悪魔と言われた一群の天使は太平洋に起因する事が多いと考えられる。この点で、太平洋がすなわち、第二の日上の水と下の水を分けたゆえに現れた存在による結論がキリストを通して現れたと考えられるのである。このことはユダの裏切りがメラネシアの蛇や竜を救えなかったことの理由でもあるのであるが、ユダがキリストを実の兄弟と思えなかったことがキリストと一緒に連れて来られたバラバで、バラバはキリストを知らないと言ったペテロであり、キリストと一緒に磔となった二人が、キリストと共に死に引き渡されるはずだったトマスとユダだったのである。このことは最後の晩餐で、ヨハネが高慢であり、ユダの疑念を急き立て、向き合うべきペトロから目をそらした故で、その時ペトロはユダを見捨て、キリストはペトロが自分を知らないというはずであることが分かったのである。アンデレはこのヨハネの監視を見抜けなかった。しかし、ヤコブはこの時何をしていたのだろうか。この時、トマスとヤコブは揉めていたのかもしれない。トマスはインドでこの大石を見出したと考えられ、また、ペトロはローマで、死を覚悟した。フィリポはヨハネの悪魔としてヨハネの監視を防ぐ必要があったが、それがどうだったかはまだわからないところがあるが。マタイはこの時、その時を待っていたのだった。しかし、この大石についてはまだまだ情報が不足しているため、ここまでとしておく。

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人食いダコダコ

昔、ダコダコという、たいへん人肉の好きな人がいた。他の人が、豚やカンガルーなどを食べるときには、自分も一緒にそれを食べるが、そのような肉では、満足ができないのだった。それで、どこへ行けば、思う存分人の肉を食べることができるか、日夜ただそればかりを案じていた。
ある日、とある小径(こみち)に待ち伏せしていた。そうとは知らないで、他の村指して急いでいく一人の旅人が、通りかかった。いきなり藪から躍り出たダコダコは、たった一撃でその旅人を殺してしまった。そして、「今日は久しぶりで、たんまりと旨いご馳走にありつける」と嬉しそうに独り言を言いながら、手頃の大きさにその肉を切り取って、舌なめずりしながら、土鍋で煮ていた。
それか地面に座り込んで、吐き出すほど食べた。食べ終わると大きな腹を見ながら、「旨かった。もうこれほど食べれば、不足はない。一つ腹減らしに、太鼓を叩いて踊りでもするか」と言った。やがて太鼓を叩きながら、一人で踊りだした。なんて呑気なおとこであることか。けれど心の中は、外から見るほど決して愉快ではなかった。さも忌々しそうに、太鼓を地面に投げつけながら、「今日はたんまりご馳走食べたのに、どうしたことか。太鼓は、一向に気が進まない音がするし、愉快であるはずの踊りに、足が疲れるとは、癪に障る」と言った。
太鼓の音といい、足が進まない様といい、どう考えても不思議でならないため、「取るに足らない奴の肉を食べたせいだな、それでは、一つ友達を殺して、食べてやろう。それは、確かに旨いに違いない」と独りで決めて、明くる日は、木刀で友達を殺した。そしてまたお料理して食べてしまうと、腹減らしに太鼓を叩きながら、踊り始めた。程なく太鼓を地面に投げつけて、「ええ、忌々しい奴だ。いったい、心まで愉快になるような人肉はないのか。友達の上等の肉を食べたのに、太鼓の音は嫌に陰気臭いし、足は馬鹿に重くて、ろくろく踊れはしないし、癪に障る」と言って怒っていた。
暫くして、ずっと山の上の方に住んでいる、クァマナ族の土人どもが、ダコダコの部落を襲って来た。人が殺したくて殺したくて、腕の肉をぴくつかせていたダコダコは、喜び勇んで大勢の村人たちの先頭に立ちながら、まっしぐらに敵の真ん中さして飛び込んだ。何しろ、人食いの名人が命懸けで荒れ狂うのだから、堪ったものではなかった。大変な勢いで攻め寄せて来たクァマナ部落の土人たちは、見る間に縦に横にバタバタと斬り倒され、生き残った者も、命からがら逃げ帰ってしまった。何をいっても、ダコダコの奮闘は、まことに目覚ましいものだった。おかげでお腹はすっかり減ったので、転がっている死骸を勿怪の幸いと、早速その一つから肉を切りとって、鍋で煮た。そして地面に腰を下ろすと、今までの激戦は忘れてしまったように、食べ始めた。やがてお腹がはちきれるほどになると、また太鼓を叩きながら、踊り始めた。すると、あれほど陰気臭かった太鼓の音は、人の心までも一緒に踊りだしはしないかとまでに、愉快に響いた。足はちょうど空気にでも乗ったように、軽く自由自在に動いた。心も体も、ばかに陽気になってしまったダコダコは、面白そうに浮かれ踊った。
ダコダコは、初めてこんな旨い肉を食べて、嬉しくてたまらなかった。踊り止めると、あの肉を切り取った死体の上に跨り、大声張り上げて、「おい、諸君。素敵だ。おそらく敵の肉程旨いものはあるまい」と並みいる人たちに言った。すると、ダコダコの体も、その足元に横たわっていた敵の死体も、同時に石に変わってしまった。いまにクァマナ山側に残っているこの二個の石は、人食いで有名なダコダコが、どんなに豪傑(ごうけつ)であったか、またダコダコのあの最後の言葉が、どんなに本当であるかを、人々に語り伝えているのである。

解釈

人食いであっても、おそらくここにあるように敵の肉が一番うまいというのは本当だと思う。それは一つ、動物のように、自らの正義を表すことである。次に敵の無念を頬張るということであり、新しい目的を得ることである。そして、身内の肉の場合には、自分の実りを削ることであり、自分の力を削ることである。よってうまくない。すなわちこれでは仕事をしたとはいえないのである。畑仕事ならば、植物を育てることが直に自分の実りを増やすことだが、争いとなると、いかに自分の正義を示し、相手の悪を打ち、その糧を自分の体に変えて、新たな問題を解決することにかかっている。狩にしてもそうである。動物の過ちを打ち人間の課題に変えているのである。

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魔法の扁桃

ずっと以前、海岸に一本の扁桃の木があった。それには、沢山の実がなるのであった。大人は、それに登り 枝を振りながら熟した実を落としてとることができたが、子供たちはそれができないので、下から石を投げて、実を落とすのであった。枝も曲がるほどになっていた実も、とうとう僅か三つになってしまった。遂に残り三つも、熟して落ちて、その木の下に横たわっていた。
すると一番大きいのが、やがて地面を転がり始めたかと思うと、若者の姿に変わって立ち上がった。そして自分で銛(もり)を作って、魚捕りに出かけた。だんだんと海岸を伝って行くと、ある入江に来た。そこで魚を一匹捕った。そして、また海岸を歩いて行くと、また入江に来た。そこでも魚を一匹捕えた。こうしてそれからそれへと、入り江に来るたびごとに、魚を取って行った。どんどん歩いて行くと、まもなく一人のお婆さんが、ココ椰子の樹の下で、椰子の枝で盃を作っているのに出会った。お婆さんは、若者の足音を聞きつけて、「すまないが、木に登って実を取ってきてください。誰も男の人が居なくて、ちょうどいま困り抜いているところです」と若者に頼んだ。若者は、軽くうなずきながら「容易い御用です。すぐに取って来ましょう」と答えた。そして手に持っていた魚はそばに置いて、縄で踝を木に軽く結びつけた。高い木に登るので疲れた時など、木の幹の途中でも楽に休むためだった。用意が終わると、若者は、椰子の木に抱きつきながら、登って行った。
若者は、必要なだけ椰子の実を落としてやったので、すぐに下りようとした。すると、その若者の肉が食べたくてならないお婆さんは、慌てて、「どうしてそのままに下りてくるのです。逆さまになって降りてきたらいいでしょう」と言った。至って無邪気な若者は、なんにも知らないで言われるままに、逆さまになって降りて来た。これを見ていたお婆さんは、いま一息で着くというときに隠していた木刀をいきなり振るうと、逆さまになったままの若者の首を打ち落とした。そして急いでその肉を料理して、夫と二人で夕食のご馳走に食べた。
話は変わって、扁桃の木の下。昨日出て行った一番大きい扁桃はこうしてとうとうかえって来なかった。今日は二番目の扁桃が、一番大きいのと同じように、くるくると地面を転がりだした。転がるうちに、若者の姿に変わった。そして魚取りに出掛けて、椰子の樹の下で同じお婆さんに出会った。お婆さんは、皺顔をにこにこさせながら、「あの椰子の実を取って来てください。あいにく男の人が居なくて、大困りしているところです。」と言った。何気なしに登った若者は、また殺されてしまった。こうしてお婆さんとその夫は、二人までも若者の肉を食べた。
三日目は、一番小さい扁桃の番であった。この扁桃もまた、転がり続けた末、若者となって立ち上がった。そしてまた魚を取りながら、お婆さんの所へ来た。お婆さんは、いつものようにニコニコしながら、若者に頼んだので、早速登って用を果たすと、そのまま下りかけた。お婆さんは、慌てて、「どうしてそのまま下りるんですか。逆さまに下りたがいいでしょう。」と言って、もう喉を鳴らしていた。
今度の若者は、永らく扁桃の殻の中にいたが、賢い性であった。それで大声で、「そんなに逆さまになって、降りた人があるのかね」というが早いか、つるつると木を滑り降りた。そして、お婆さんの木刀を奪い取って、その首を切り落としてしまった。この若者もついでに殺してしまおうと思ったお婆さんは、反対に殺されたのであった。若者はその肉を料理して、お婆さんの家の鍋に入れて置いた。こうして置けば、畑から帰って来た夫は、お婆さんの肉とは知らないで、平気で食べることであろう。若者はそれから、独りうなずきながら、すぐ家の近くの檳榔樹に登って、葉陰に身をひそめながら眺めていた。そうとは知らないで、夫は急いで帰って来た。あまりお腹がすいていたので、今日は、お婆さんの帰りを待つどころの騒ぎではなかった。鍋の中の肉を見つけると、物も言わないで、食べてしまった。もうだいぶ食べた頃、突然檳榔樹の上から、「どうだい、旨かろう。いや、旨いに違いない。旨いはずだよ。お婆さんの肉だから。」と声が聞こえて来た。訝しく思った夫は、その樹の下に来て探してみると、立派な若者が、樹上にいた。これを見た夫は、くやしさ紛れに血相変えて、「畜生、婆さんを殺したのはお前だな、そこで待っていろ」と罵った。けれどその瞬間に、若者は次の木へと飛びついた。怒り狂った男は、さらにその木も伐り倒した。すると今度は、パンの木に飛び移った。男は、またパンの木に伐りつけたその荒れ狂うさまは、本当に物凄い程だった。若者は飛鳥のように、胡桃の樹に飛び移った。もうここまでくると、あれほど荒れ回っていた男も、がっかりしてしまった。しかし、すぐ眼の上に憎い敵がいると思うと、どうしてもそのままに収まらなかった。再び勇気を取り出して、続け様に胡桃の大幹に伐りつけた。さしもの大木も、掛け声と共に、めりめりと言い始めた。あたりには、木と言ってはもう何もなかった。若者は、とうとう袋の中の鼠同様の破目に陥った。がっかりしていた男も、これを見て、「ざま見ろ、よくも婆さんを殺しおったな。さあ、いまからお前を八つ裂きにしてくれるぞ」と言って、凄い笑いを漏らしていた。すると突然物凄い響きが聞こえたと思うと、木は砂煙を立ててうち倒れた。男は、若者の体に、踊りかかった、するといままで人間の姿をしていた若者は、見る間に一匹の小蟹となって、地中へ潜り込んでしまった。そしてずっと今日まで、この若者は、この蟹の姿のままでいる。ご覧ください。海岸の砂原の穴の中には、沢山蟹がいるだろう。これは、この若者の子孫たちなのである。そして人間が穴の側に近寄ると、蟹は、うろたえて穴の中へと逃げ込む。それは、これらの蟹どもの祖先の若者が、人間の女を殺したため、人間から復讐されることを恐れているためだった。

解釈

扁桃の実が人間の若者になる。メラネシアは植物から人になった話が多いように見受けられる。しかしここでは植物の実であるが。椰子の実から女を造った話にもあるように、植物の実が人と関係があるような記述は、否定はできない。なぜなら、人間が初めザハル、ウネケバーとして想像されたとされ、パレスチナの伝承ではリリスという女が初めアダムとひとつの体で生まれたとあるように、植物性は非常に大きいのである。同じような聖書からの発展のような話にはシベリアの話も存在する。このあたりの神話は太平洋を取り巻いていると考えられるが、ここでの話ではお婆さんを殺してその夫にその肉を食べさせた最後の扁桃の実から若者になった人間は蟹になっている。その理由が復讐を恐れているということであるが、この若者の正当性がなぜこのような結果になったのかという所には、植物の定めのような結末を想像させる。この話は果物が食べられるという所からわかる通り、人間とはまた異なった存在ということなのだろうか。

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火食鳥

昔、ある夫婦者が住んでいた。二人の間には、小さい子供があった。夫は毎日畑に行くので、お嫁さんは、仕方なく家にいて子供の守りをしていなければならなかった。けれども夫は、作物がどんなに見事にできていても、まだ一度もそれを持って来てやったことはなかった。で、ある日お嫁さんは、「なぜ食べ物を持って来てくださらない。私は何を食べて生きて行くと思うの」と言った。すると夫は、なだめるように、「そう怒るな、明日までお待ち、持って来てあげるから」と答えた。いままでお腹はすいていても食べ物がないので、仕方なく小石を水で煮てその湯を飲んでいた。捨てた小石も積りに積もって、いまでは、戸口の所に山のようになっていた。明くる日になると、今日はおいしい食べ物を持って来てもらえるというので、夫の帰りを待っていた。やがて、夫は帰って来た。しかも、あれ程約束したにもかかわらず、また何も持って帰ってはこなかった。お嫁さんは、今日も仕方なく小石を水で煮て、その湯で腹の虫は治めたが、あまりの夫の不甲斐なさに、腹が立ってならないので、「あなたは、どうしても食べ物を持ってこないね」と嫌味を言った。夫はこれを聞いて「いかにも、けれど明日こそは、食べきれないほど持って帰ってあげるから、楽しみにしておいでよ」と慰めた。
しかし、いままでさんざん夫に嘘つかれたお嫁さんは、そんな甘やかしの口車には乗るどころか、すっかり愛想が尽きたので、この家を逃げようと決心した。もう日も大分高くなった。お嫁さんは、急いで女が草取るために使う道具の短い二本棒を、一本ずつ腰と踵の間にあてて縛り付け、長らく歩いても疲れないようにした。それから椰子の葉の剛毛を取って、わきの下に着け、芭蕉の葉でこしらえた腰巻を身にまとった。すっかり出発の準備が整うと、家の裏壁逃げ穴をあけて、そして夫を待ち受けていた。そうとは少しも知らない夫は帰って来た。今日もまた見事に騙されて、お嫁さんは、立ち上がって、「自分で作った食べ物を、ご自分で食べるのはお勝手でしょうが、その代わりにこの子供もあなたのですから、あげましょう。私は、今日きり出て行きます。」と言い終わるが早いか、つくっておいた穴を潜って、藪を指して走って行った。夫は、この意外な言葉に、かっとなったので、戸口のところに積んであった石を鷲掴みにして、続けざまにお嫁さんに投げつけた。けれどお嫁さんも一生懸命だったため、数多くの石も、一つとしてそこまでは届かなかったのだった。間もなくその姿は藪の中へ消えた。するとお嫁さんの姿は、そこで火食鳥に変わった。私たちが今日出陣の飾りとして使う火食鳥の羽の下にある刺毛(しもう)こそ、実はこのお嫁さんが、わきの下に着けていた椰子の剛毛なのである。そしてあの腰巻は、羽毛となり、また棒を縛り付けた脚は、一蹴りで被とも毛殺してしまうほど恐ろしい、あの丈夫な脚となったのである。こうして火食鳥は、今日までずっと藪の中に生活している。また火食鳥は、お嫁さんから成ったというので、女たちは、決してその肉を食べてはいけない。もし食べてしまったら、それはそれは醜い顔の子供ができるのだった。これは、嘘でも、馬鹿話でもなく、正真正銘真実の話である。

解釈

火食鳥で有名なのはオーストラリアであるが、ここメラネシアでも火食鳥がいて、さらに、女は火食鳥を食べないという。火を食うというのは、命が限界までネグレクトされて、それゆえに人の火を食べることになったお嫁さんという意味だろうか。また、オーストラリアでは火食鳥は普通に食べられるが、これはオーストラリアの女性秩序が極めて低いためなのかもしれない。それどころか、ハリティのような鬼神を生む原因となった話がここにあるようである。それは、女だけではないかもしれないが、この話のように、女が受けた仕打ちが関係しているようである。もしくは、それだけオーストラリアの罪が大きく、それを悔い改めるようなしきたりが、メラネシアの信仰の現れなのかもしれない。しかし、この周辺すなわちオセアニア地域の話はよく比較して検討するべきかもしれない。多くの女に関する問題が現れていると思うのである。

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首の抜ける男

筆者たちは、お父さんからよく、昔まだ椰子がなかった時があったと聞いていた。その時代には、喉が渇けば、水を飲むのが関の山であったし、芋を食べるときもおいしい椰子乳もつけないで、そのまま食べなければならなかった。けれど椰子というものを食べたことのない人々は、またそれで満足していた。
このとき全村、魚漁を仕事としていたある村があった。村人の毎日の日課は、朝早く出て行って、夕方には長くつないだ獲物を引き提げながら帰ってくることだった。そして夕食の時になると、一同ぐつぐつと煮える芋を中にして、一つも余さないように、綺麗に平らげてしまうのであった。大勢の村人たちの中、どんな時でも一人で出かけ、しかも夕方になると、紐につなぐどころか、はちきれそうになった籠を重そうに提げながら帰ってくる、一人の男があった。
この男が帰ってくるときには、決まりきったようにこのようであり、また行く時と言っても、決して友達と一緒に出掛けなかった。村人たちの眼は、自然この不思議な、謎のような人の上に集まった。村人は、どうしてあれほど沢山な魚を捕って来るのか、見たいものだと話し合っていた。ある日側で聞いていた一人の子供が、ふと妙案を考えて、「あくる朝あの人が出て行くときに、この私が、そっと後をつけて行きます。そしてあの長い草の中から、あの人の有様をうかがうのです」と言った。村人たちもいかにもと思ったので、それに賛成した。
明くる朝になると、子供がつけて来るとは知らないで、男は、いつもの道を歩いて行った。子供は、草の中に身を潜ませながら、見え隠れについて行った。時には、男の有様をよく見てやろうと、大胆にもすぐ後にまで忍び寄ったこともあった。そういう時には、子供の草を分ける音が、すぐ後にざわつくので、男も不思議に思って見回したこともあった。またときには、その音が腑に落ちないで、獣でも出て来たのではないかと思って、音のするあたりに、槍を差し込んだこともあった。けれど目を皿のようにしていた子供は、そのたびに危うく槍の先を避けた。無事海岸に出ると、見つけられては一大事とばかりにコルクの木の後に身を忍ばせて、(このコルクの木がチオバ樹で、鰐のナガラ(ウェブブのこと?)がこの上に座って、横笛を吹いたことのある木だった。)成行をうかがっていた。さざ波が渚に打ち寄せていた。やがて男は、手にしていた籠を地に置くと、両手で自分の頭を抱えて、引き抜く様子をした。これは不思議と子供は固唾をのみながら見つめていた。すると意外にも、自分の首を引っこ抜いて、両手で大事そうに抱えて、籠の側に置いた。
さらに奇怪なことに、首のない化け物みたいな男は、腰のあたりまで水の中へ入って行くと立ち止まった。子供は、恐ろしさの余り胸を轟かせながら、見つめていた。首のない男は、やがて腰をかがめ、喉元を水の中へ差し込んだ。するとあたりに集まって来た魚は、まるで競争でもするようにその喉元指して入ってきた。こうして暫く腰をかがめていた男は、それから体を上げて、静かに岸の方へと歩いて行ったのだった。そして砂の上でちょっと体を振った。すると、大きな魚小さな魚がたくさん出て来た。吸い込んでいた魚も、すっかり吐き出してしまうと、自分の首を勘で探り当て、自分の頭の上に載せた。もう、元通りの立派な人間に戻った。この人間業ならない有様をじっと見ていた子供は、ただ呆気に取られて、開いた口もふさがらなかった。すると今度は砂の上に座り込んで、吐き出した魚を選り始めた。大きい見事なのばかりは、籠に拾い上げて、小さいのは、片っ端から投げ捨てた。これは到底人間でできることではなかった。
コルク樹の後ろで眺めていた子供は、腰も抜かさんばかりに、逃げ帰った。こういう化け物の近くにいたので恐ろしかったのであろう。やがて夕食のときが来た。人々は、愉快に語り合いながら、今日捕れた魚を旨そうに食べていた。けれどもあの子供だけは、どうしても食べようとしなかった。人々は怪しんで「なぜ食べないのか。お腹がすいただろうに」と魚を勧めたが、子供はあの化け物が取った魚には、手を触れることさえ嫌がった。あまりおかしいので、食事が終わってから数人の人たちは、そっと子供を陰に連れて行って、その理由を尋ねた。子供は、今日見て来た恐ろしい有様を、残らず語った。そうとも知らないで舌鼓を打って食べてしまった人たちは、怒りながら、「よし、それじゃ、明日は俺たちでつけて行って、奴を懲らしめてやろう。一度喉に入れた物を俺たちに食わせるなんて、怪しからぬ奴だ」と言った。
明くる日申し合わせた村人たちは、あの奇怪な男をつけて行った。やがて海辺についた男は、自分の首を引き抜くと、地上に置いた。村人たちは、目をぎょろつかせながら、木の後ろから眺めていた。子供の話の通り、首のない男は喉元を水の中へつけた。魚どもは吸い込まれるように、その口に泳ぎ集まって来た。そのとき木陰に身を潜めていた一人の男が、そっと這い出て、地上に置いてある首を掴み上げると、遥か後ろの藪の中へ投げ込んだ。さあ、あの首のない男はどうするのであろうか。皆は、息を殺して成行を眺めていた。
暫くすると、思う存分魚を吸い込んだ首のない男は、岸の方へ上がって来た。そして魚を降り出して、首を手さぐりした。しかし、確かさっき置いたはずの所に、あの大事な首はなかった。人々は、その化け物のような男を見ながら、非常な興味で眺めていた。すると首のない男は、小石の上を這いながらあたりを手さぐりしていた。突然はっと思うと、驚く人々を尻目にかけて立ち上がった男は海中指してまっしぐらに飛び込んだ。そして見ている間に、それは大きな魚となって、海底深く潜って行った。漸く我に返った人たちは、こうして気持ちよくかたき討ちしたので、村へと引き揚げて来た。
それから後のことであった。始めてあの化け物の男を見届けた子供は、藪の中に捨てたあの首のことを思い出して、それを探しに行った。しかし、首を棄てたはずの所には、影も形も見えなくて、その代わりそこには、葉も青々と一本の細長い椰子の樹が、聳え立っていた。けれどこれが何の木であるかは、誰も知らなかった。また旨そうな実が、枝も曲がりそうになっていたが、誰も気味悪がって、食べようとはしなかった。ある時一人の女が、大胆にもこの木に登って、その実は食べ、牛乳のようなその汁は、体に塗りつけてみた。それは毒になるどころか、大変益になった。こうしてすべての人が、椰子のことを知るようになった。そして、その時から、ずっと今日まで椰子の実は、私たちの食べ物となり飲み物となり、また、そのほかいろいろと役立っている。
この話が本当であるということを知るために、殻を取り去った後の椰子の実を見ると、その頭に最初の椰子の実となった男の顔が目につくだろう。

解釈

この手の男はベトナムの伝承でも出て来るが、その最たる先人がこの椰子になった、魚を捕る男だったと考えられる。このことは不老不死とは異なり、不死身というほうが正しい。この二者は根本的に原理が異なっていると考えられる。そして、これはホメオスタシスの原理と一致すると考えられる。そしてここには内外が関係しているように思うのである。この件は、再考する必要がある。

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黒鸚鵡

昔、カピコアという黒鸚鵡の大首領がいた。大変残酷な方で、大勢の手下を悪し様に取り扱っていた。これもその一例で、檳榔子を食べるときでも手下の者には、その殻を与え、自分はおいしい中身をとるという有様であった。
ある日、カピコアは、大勢の手下に向かって、「丸木舟の用意をしろ。私は、これから西部の方へ旅行して来ようと思う。」と命じた。やがてすっかり用意が整うと、手下どもを始め頭は、その船に乗り込んで、出発した。そして長い航海の後、とある島に上陸した。手下どもは、なんとかしてあの欲張りのお頭の手を逃れたいものだと、そっと相談していたが、「一人置き去りにしてやろうではないか。さすがの彼も、檳榔子を取ってくれる人がいなくては参るだろう」と申し合わせた。やがて一同は、お頭の所へ来て、「お願いでございます。ちょっとお頭だけ船に乗っていて下さって、その間に、私たちを水飲みにやらせていただけませんか」と願った。お頭はそれを聞くと、よかろう、とすぐさま答えた。手下どもは、とある渓流を見つけて、それを手伝って登って行った。大勢の者が、土足のままでどやどやと入り込んだため、澄み切っていた渓流も、下の方はどす黒く濁ってしまった。昇り詰めると、そこは水源になっていた。そこから湧き出る谷清水は、まるで、水晶か玉を溶かしたようで、一口口に入れただけでも、その冷たさは頭の心までも徹りそうであった。おいしい清水を飲んだ手下どもは、お頭の所へ帰って来て、「とても旨い清水です。一つお頭も飲んできてはいかがですか。今度は、私どもが船の番をしましょう」と言った。さっきから喉が渇いてならなかったお頭は、清水と聞いてもう堪らなくて、否応なしに出て行った。言われた渓流に来てみると、手下どもがさんざん荒して行ったため、下の方はまだ真っ黒く濁っていた。仕方なく、だんだんと渓流をたどって、遂にその水源へと来た。手下どもが言ったように、喉も透き通るほどに冷たい清水だった。十分喉を潤したお頭は、満足して海岸へ戻って来た。帰ってみると、もうそこには丸木舟はなく、ただ渚に放りっぱなしになっている自分の袋だけが、残っていた。手下どもは、お頭のいないのを幸いに、大丈夫という所まで船を漕ぎだして、そして、そこで櫂を休ませていたのであった。手下どもの姿を見つけたお頭は、口惜しいやら、腹立たしいやらで大声を上げて、「冗談も大概にしてこちらに漕ぎつけろ。」と呼び掛けた。けれど手下どもは、「冗談でもなんでもない。檳榔子の皮ばかりよこして、自分ばかり旨い果肉を食べて、お前はひどい奴だ。一つゆっくりこれから、一人島住まいの気楽さを味わうがいい。主従もあるものか。俺たちは、少しもお前を、可哀想だとは思わない」とさんざんお頭を罵った。そして挙句、また櫂を動かしながら、家を指して漕いで行った。
手下どもからさんざん悪口を叩かれて、みすみす見逃さなければならないと思うと、口惜しかったが、もしや手下どもが心を翻して戻って来はしないかと、なおもじっと、小さくなっていく船の後ろ姿を、見つめていた。遂に、船は見えなくなった。波ばかりが、癪に障るような音を立てて、足元へ押し寄せて来た。いつまでも、こうしてここにいたところで、どうにも仕方はなかった。元気を出したお頭は、踵を廻らせると、藪の中をたどりながら、川の方へと進んで行った。
川の岸には、一本の大きな無花果の樹があったので、それを見つけたお頭は、それに登った。そして枝の上に座っていると、これはまたこの山奥にどこから降って来たか、おいしい乙女が、その下を通りかかった。どうするかと見下ろしていると、乙女は、そんなこととは知らないで、持ってきた椰子製の桶に、川の水を汲み始めた。カピコアは一人うなずきながら、無花果を一つもぎ取ると、乙女が自分を見つける様に、それを河の中へ投げつけた。突然の水音に、乙女ははっと思って見上げた。しかし、何も見えないので、腰をかがめてまた水汲みを続けた。カピコアは、また無花果を投げ込んだ。続けざまの水音に、乙女は、「さては誰かが投げているのね。風で吹き落されるのとは違うよ」と考えた。怪しいのは大きな無花果の樹であった。乙女は、眼を皿のようにして、その樹を見つめていると、枝の上に座っているカピコアの姿が、初めて目に止まった。乙女は思わず、「降りておいでなさいよ。」と言った。カピコアは気を下りて来た。見れば見るほど美しい乙女、カピコアは、すっかり見惚れていた。やがて二人は、その川岸で結婚して出て行った。道で夫は、「お前も私のお嫁さんになったからには、私のために料理しなければならないよ」と話しかけた。乙女は、早速芋の皮を剥いて、暖かくなるように日向に置いた。これを見ていた夫は、「火はないのか」と尋ねた。乙女は、優しい声で「私はあなたのおっしゃることがさっぱりわかりません」と訝しそうに尋ね返した。というのは、乙女の国には火というものが無くて、人々は、食べ物を生で食べるか、太陽の熱で暖かくして食べるくらいが関の山だった。乙女のこの言葉を聞いた夫は「木片二つをここに置いてくれ」と言った。乙女は、言われるままに、二つの木片を持ってきた。夫は、それを両手に持って全身の力でそれを擦っていると、やがてその摩擦面に当たるところは、燻ぶり始めた。なお一生懸命に擦りながら、ふうふうと、その燻ぶり始めたところを吹いていると、遂に木片は燃え始めた。
ひらひらと燃え上がる炎を見て、乙女の驚きは一方ではなかった。どこからあの炎は出て来たか、乙女には、それが不思議でならなかったのである。訝しそうなお嫁さんの顔を見て、夫は、「何も怖いものではない。さあ、これで、火というものの起こし方もわかっただろうから、食べ物を料理してくれ」とお嫁さんを促した。乙女は芋を切って、それを調理して夫の前に差し出した。二人の食事が終わると、カピコアは、「火というものは、どうして起こし、またどのくらい役にたつものかも、分かっただろう。今後は、いつもこのような、火で煮焼きしなければならないよ」それからというものは、乙女はいつも食べ物を火で調理した。一人この乙女ばかりではなく、女という女はみな今日までそうしている。皆さん、お話はこれですみました。山芋一つ焼いて、これをオギチさんの頭で破って食べようではないか。

解釈

最後の文は会話文のような話し方になっていて真意が旨く読み取れない。オギチさんとはだれなのか。また頭で破って食べるとはどういうことなのだろうか。それはさておき、ここでは、メラネシアの神話(天国を去った人)と(マヌバダの花嫁)と同様に一人島に取り残された人の話となっている。このスタイルの話はメラネシアの土地柄を考えれば大体うなずける。また一番重要なのは、このカピコアという鳥は女に火を教えたとされるところである。メラネシアの神話では蛇が火を与えた話や、火を持っているお婆さんがいる話によって火の起源を示しているが、黒鸚鵡が女に火を教えるという話は不思議である。北アメリカでは火を盗み出す話がある。この点も踏まえ火の起源についてはおそらくギリシャのプロメテウスから飛び火して様々な伝わり方を経ているようである。

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二十日鼠と蝶

(皆さん方は今話をしてくれと、言われましたね。)それでは、これから、獣どもがまだ、互いに話すことができ、また今の人間と同じようなことをすることができた時代の、ある日の出来事について、お話いたしましょう。

今から話すことの時代には、二十日鼠と蝶とが、一隻の丸木舟を作った。二人は、石斧で一生懸命に木をくりぬいて、見事な丸木舟を作り、それに大きな外装船を縛り付けた。こうして出来上がると、二人はそれに乗り込んで、食糧を見つけるため、島探検に出掛けた。
けれど、可哀想に、出発後まもなく、丸木舟は壊れて、二人は水中でもがいていた。二十日鼠の背も横腹もすっかり毛皮が濡れついてしまって、蝶の羽も水のために重たくたるんでしまった。しかし、二人は、元気を出して、しばらくの後には、海岸へと泳ぎ着いた。折角船に積んできた食糧は、今は海底に沈んでしまったため、早速困るのは、食糧の問題であった。二人は、濡れた体で海岸に立ったまま、どこへ行ったらいいか、しきりと考えていた。「どうだい。砂糖黍を食べようか」と二十日鼠は蝶を顧みて尋ねた。蝶は「いや、それはつまらない。バナナのほうがいい。さあ、これからバナナを探さなければならない」と蝶は、突っ込むように答えた。すると、二十日鼠は「それはなおさらつまらない。私は、いまから砂糖黍畑に行って、思う存分そこで食べて来るさ」と言った。二十日鼠は出て行った。後に一人取り残された蝶もまた、あちこちとバナナを探し始めた。遂に実簿とに熟したバナナを発見して、餓鬼のようにかじっていると、助けを呼ぶ声が聞こえた。蝶は自分の友達の声であるとわかると、旨そうなバナナを打ち捨てて、声のする方へ走って行った。
二十日鼠は、大きな砂糖黍畑を見つけたので、頑丈な幹に噛みついて、流れ出る甘い液を吸っていた。思いがけないご馳走にありついて、心は愉快で愉快でならなかった。あまりの甘さに何もかも打ち忘れて、一本の幹をだんだんかじっているうちに、幹が切れて、倒れて来たその重い幹のために、二十日鼠は押しつぶされてしまった。蝶が聞きつけたのは、その断末魔の悲鳴だった。見ると二十日鼠は、その死骸を地面に横たえていた。いまその死骸を葬るよりほかは、解放の仕方もなかった。それで蝶は、芋の葉を摘み取って、友の死骸をそれに包み、それを担いで墓地を指して出掛けた。間もなく、鳥どもが耕している畑へ来た。二、三羽の小さい鷽(うそ)が、せっせと働いていた。そして近づいてきた蝶を見て、「何を担いでいるのかね」と尋ねた。蝶は何でもない、と軽く受け流しながら、その傍を通って行った。すると程なく、今度は鶺鴒(せきれい)が耕しているところに来た。鶺鴒もまた、蝶の姿を見て同じように尋ねた。蝶は、同じように答えて、さっさと側を通って行った。それから鸚鵡が耕している側を通り、次には犀鳥(つのどり)の傍を通り抜けて行った。そしていずれも同じように尋ねられ、また同じように答えた。蝶も大分疲れて、犀鳥の傍を通りぬけた時には、ほっと一息をついて、もうこの上誰にも会わなければいいなと思った。が墓場に着かないうちにまた今度は、嫌な大鷲に出会った。鷲は、蝶の姿を見とがめて、「大事そうに担いでいるが、その包みはいったい何だい」と荒々しい声で尋ねた。蝶は大変なものに出会わしたと思って、「なんでもありません」と答えた、その声は、恐怖のために細い声だった。「そうではあるまい、私が一つあててみよう」と鷲は言いながら、蝶が担いでいた包の上に躍りかかり、有無を言わさず、それを鷲掴みにして、蝶の上に飛び上がって、そこに腰を下ろし、二十日鼠の死骸をたった一口に食べてしまった。
驚いた蝶は、成行も見届けないで、逃げ出した。そして自分よりも、もっと強い兄さんを探しに走って行った。兄さんの姿を見つけると、蝶はさも嬉しそうに大声で「兄さんの投石器を持って、私と一緒においでください」と大慌てに叫んだ。そして二人は、さっきの所へ走って来た。鷲は、思いがけないご馳走を食べて、きょとんとした目つきで、やはりその木の枝に座っていた。
兄さんは、すかさず、一つの石を投石器に入れると、頭上でぐるぐる回していたが、勢いよく鷲目掛けて、石を投げつけた。急所に打たれた鷲は地上に墜ちて死んだ。こうして亡き友の二十日鼠の死骸に加えられた恥辱を見事に雪いだ(そそいだ)蝶二人は、家に帰って行った。

解釈

この話は最初に断っているように、動物が人間のように行動ができた時代について話している。押さえておきたいのは、まず、二人が丸木舟で船旅を行ったこと、次に、互いに別の食べ物を求めて別れたこと、そして食べ物を取るときに二十日鼠が死んだこと、最後に、蝶は二十日鼠を供養しようとしたこと、である。別に押さえておきたいのは蝶は兄を呼び、投石器を使ったということ。
二人が船出をしたことが罪か否かである。そして、二十日鼠は蝶と別れる道を選んだことがよいことか悪いことか。しかし、蝶は二十日鼠が死んでそれを供養しようとした、儀式への尊厳を持っていたことが見受けられる。二十日鼠が砂糖黍を食べたことがよくなかったとする見方もできるのは蝶が食べようとしたバナナのほうが、見合っていたということが考えられるからである。そして死んだ二十日鼠がたとえそうであっても蝶にとって親しいゆえに供養する必要があったということで、それを邪魔だてした鷲は、特にこの意味でよくなく、しかし砂糖黍を食べてはいけなかったのならば、それゆえに鷲は二十日鼠を食べたのかもしれないこと。そして三者を比べると、蝶が生存するに値するということ。

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運の強い人

昔、タウリボレナという大酋長が山地に住んでいた。その酋長には、レクボレという老婆と、カウアビラという、まだ若い女との、二人のお嫁さんがあった。ある日のこと酋長は、二人のお嫁さんに向かって、海岸について来いと命じた。二人のお嫁さんは、子供を担いで行く酋長の後から沢山の食料を詰め込んだ、重い袋を各々首からぶら下げてついて行った。道で子供は手荒い酋長の扱いに、火のつくように泣き出した。お嫁さんの手に渡されなければ、泣き止みそうになかった。お嫁さんたちは、その子供に対する残酷な夫の仕打ちに腹を立てて、子供を受けるとすぐに草叢の中に隠れた。そして夫の目から逃れようと思った。けれどまもなく夫はそれに気付いて、
「子持たぬ女の足跡よ!
子を抱く女の足跡よ!」
と歌いながら、後へ引き返して来た。お嫁さんたちは、じきに発見されて、無理に海岸へ連れていかれた。けれどもその日、夜になるのを待ち受けて、そっと抜け出て、その海岸村に住んでいる兄弟たちの所へ逃げ込んだ。そしてタウリボレナの残酷の数々を述べ立てて、どうか夫を除いてくださいと、願った。これを聞いて兄弟たちの一人は、「安心しなさい。明日畑に長草刈りに行ったときに、彼をきっと草刈鎌でやっつけてしまいます」となだめた。
翌日、兄妹たちは、タウリボレナを、草刈りに誘った。タウリボレナは、笑いながら、早速承知した。やがて皆は、木の鎌で、手当たり次第に草を伐りながら、だんだんとタウリボレナの足元へ近づいた。鎌は気持ちの良い音を立てながら、最早足を払わんばかりの所まで進んできた。そのたびごとにタウリボレナは、横に立ち退いてその刃先を避けた。こうして危ういところを、、大事な脚も払われなくて、その日一日を長らえた。草刈りの人たちは、草の手応えばかりで、目指す人の足の手応えもなく、へとへとに疲れてしまって、タウリボレナと一緒に帰って来た。こうして初めの計画は、水の泡と化した。けれど第二の計画は、また新しく巡らされた。明くる日、太陽が昇った頃、兄妹たちは、タウリボレナに、「私たちは、猟に行くところです。どうです。来ませんか」と誘いかけた。タウリボレナは、槍を貸してくれるなら、喜んで行くと答えた。それで囲炉裏の上の槍掛けから、投槍を一つつかみ取り出して与えた。兄弟たちの一人は、燃え盛る一塊の隅を入れた椰子殻を持っていた。主人たちの鋭い口笛の音に、犬は尾を振りながら集まった。もう出発しない前から、前景気は盛んだった。
狩場までは、かなりの道程であったが、大勢で話しながら歩いているうちに、遂に目的地に着いた。それから三人ずつ一団となって、めいめいの方角に向かった。これから長草に火を付けて、飛びいる獣を見守ることになった。
兄弟たちが、バラバラに別れたのも、長草に火を放つのも、これは、すべて兄弟が前日申し合わせた、計画だった。というのは、別れてから間もなく、また、そっと集まり、タウリボレナが四方炎に包まれてしまうように、四方から環状に火を放つ算段だった。炎は四方からタウリボレナの身辺へ進んできた。あのタウリボレナが、どうしてこの渦巻く黒煙に堪えるか、人々は、心の中にうす気味悪い笑みをたたえながら、じろじろと、この有様を眺めていた。すると、身辺に迫って来る猛火を見たタウリボレナは、突然、総身に力を込めたかと思うと、恐ろしい勢いで、一躍し、炎の柵をなんの苦もなく飛び越えて、次の瞬間には、仰天した人々の傍に立っていた。こうして、第二の計画も、第一と同じように、見事失敗に帰した。
翌日になると、海は舐めたように静かだった。誂え向きの漁日和であった。人々は、タウリボレナを、魚取りに誘った。やがて一同は、一隻の丸木舟に打ち乗って、澄み切った水を透して蛤を探しながら、あちこちと漕ぎ歩いた。遂に大きいのを一つ発見した。けれどもそれは、あいにく、深い海底にいた。すると一同は申し合わせたように、それを取ってないかと、タウリボレナに勧めた。うなずいたタウリボレナは、丸木舟から身を躍らすと、大蛤が砂の上に見えている深い海底を指して、潜っていった。そして海底に着くと何の気もなく貝殻の中に手を差し込んだ。びっくりして蛤は蓋を閉じた。タウリボレナは、貝蓋に挟まれたまま、浮き上がることも、手を引き抜くこともできなかった。水上からこの有様を眺めていた兄弟たちは、計画が思う壺にはまったので、舷(ふなばた)を叩いて喜んだ。そして、とくと見届けた上、家に帰って、二人のお嫁さんを喜ばせた。やがて満潮の時となり潮が一番高くなるころ、大蛤はぱっくり口を開いたので、タウリボレナの体は、水面に浮かんできた。それは、波に揺られて程なく海岸の砂の上に投げ出された。長い間海底で海水を飲み込んで体が丸くなっていた。人々は、その傍を通るとき、ちょっと立ち止まって口々に「可哀想に、この人は本当に死んでいる」と言っていた。すると、空高く飛んでいた鳥どもが、この大きな獲物を見つけて、蟻のようにたかりかかってきて、その肉をつつき始めた。まず一番最初に下りて来たのが、山場とで、その次に来たのが黒鸚鵡、それから鷹、鳥、極楽鳥と、その他いろんな沢山な鳥がいた。しかし、タウリボレナの肉は、固くて、鳥どもの嘴は立たなかった。そのうちにチアという、鳥類の中で一番小さい鳥の番となった。チアは、突然天空目掛けて一直線に昇って行って、月まで達すると、今度は頭を向け換えて、雷よりも早くタウリボレナの体目掛けて、落下してきた。そしてその小さい嘴を、恐ろしい勢いでタウリボレナの体に突っ込んだと思う瞬間、今までその体中にたまっていた水は、滝のように噴出した。暫くたつと、「運の強い人」は、起き上がって、体を打ち振るっていたが、
「子を持たぬ女の足跡よ!
子を抱く女の足跡よ!」
と歌いながら、二人のお嫁さん探しに歩いて行った。間もなく二人の居場所は発見された。二人は、夫に対する自分達の憎しみを悟られねばよいと心に年次ながらも、今度は兄弟たちに頼まないで、自分たちで、計画を立て、何とかしてあの乱暴な夫の手から逃れなければならないと決心した。それで二人は、タウリボレナの前に出て、「おいでなさい。果物を食べに行きましょう。クミカも、もう熟れてはいませんかね」と言って誘いかけた。それから三人は打ち揃って、出て行った。タウリボレナは、嫁さんたちが集めて来るクミカを、片っ端から、さも旨そうに食べて、なおその上催促までした。けれどお気には、もうなってはいないので、お嫁さんたちを顧みて、「子供は、この鷲が守りしていてやるから、お前たち、クミカを取って来てくれ」と言った。お嫁さんたちは、言いつけ通り沢山なクミカを取って来て、熱く焼け切った石の上で、焼いた。料理が終わると、「私たちが、一つずつ投げ込んであげるから、その都度口をお開きなさい」と言った。タウリボレナは、口を開いて、お嫁さんたちが投げ込む熱い果物を、食べながら、こつは素敵だと嬉しそうに言った。それからお嫁さん達は、一つ一つと口の中に投げ入れてやった。そして遂に最後には、果物を焼いたあの焼き石までも投げ込んだ。タウリボレナは、それを果物と思って、何気なしに口に入れたため口の中が焼け始め、焦げ臭い煙が口の中から噴き出してきた。すると、憤怒の情に燃えたタウリボレナは、突然立ち上がるが早いか、石斧刃、黒曜石などが居れてある自分の袋を取って、さっとばかり海中へ投げ込んだ。そして自分も海中へ入り波しぶきを立てて、遥か沖合のイリワフオ島指して、泳いで行った。そして間もなく、その姿は見えなくなった。

解釈

二人の嫁、ここでは老婆と娘の二人である。年が離れている理由はおそらく子宮にまつわる悪に関する興味である。母と娘に関しての女が女を生むという難点に対する興味であり、双子の関係を包括する問題への興味である。すなわち、メラネシア周辺、オーストラリア、ポリネシアなど、(またインドネシアも含まれるかもしれない)では女の悪が著しいように思われ、この理由の一つに、善悪の知識があげられる。すなわちカットとマラワの関係を知ってはならないという神の法ゆえに、またそれを知った女ゆえにである。この点でなぜ女がこの知識を得ようと考えたのかという議論がこの手の神話伝説にあるように考えられる。これは当然現代の心理学でも取沙汰されるヒステリックと関係がある。そして、子宮の要求が悪である点と裏腹に女性は人間としての善を求めるのである。当然ながらこの解決は愛によってもたらされるが、それがない場合には遅かれ早かれ子宮によって阻害されてしまうように感じられる。子宮自体が男性をむさぼろうと、砂を吐き出すものなのだろうか。モンゴルの砂漠ではマンイーターと呼ばれるような生命をむさぼる者がいると聞くが、子宮の悪もこれと同様の者と考えられ、また、善悪の知恵ゆえに、善悪の木の実を食べたゆえに裁かれたものとして存在しているようである。天上では男女は一つであるという話は本当だと考えられるが、さばきのゆえに男女に分かれるのだろう。これゆえに男女の肉は一つとなるので、愛によって肉欲が解決されることが実質子宮の要求を緩和し、人間の善性へ導くものとなる。しかし、まったく関係のない男女交際においては必ず違和感が生じる。
この話ではまた、レメクの話と近似しているように思われる。しかし、タウリボレナはなぜか海を渡ってイリワフオ島という所に向かっている点で、ペルーのビラコチャを思わせる。ビラコチャの要求においてもレメクと同様の悩みを抱えているのかもしれない。また、この男タウリボレナの運の強さにおいても武烈天皇との近似性が感じられる。

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七面鳥になった子供

ある村に、夫婦者が住んでいた。二人の中には、男の子と乙女の、二人の子があった。ある日両親は畑に、子供は、家の留守居をしていた。お母さんは、家を出るとき、「何か食べ物をお料理して、、それを柔らかくなるまで噛んで、犬に食べさせておやりなさい」と乙女に言いつけた。そして男の子に、「犬を河に連れて行って、行水しておやりなさい」と言いつけた。二人の子供たちは、お母さんが自分達より犬を可愛がるのだと思うと、妬ましくてならなかった。そこで、乙女が居留守している間に、男の子は、犬を河に連れて行って、その頭を石に打ちつけて、殺してしまった。やがて男の子は、その死体を持って帰って来た。そして二人は、それをお料理して、大きな土鍋で煮た。
両親が帰る時刻、二人は、今日の始末が見つけられるのを恐れて、その前に村から逃げ延びるに越したことはないと、考えた。男の子は檳榔樹に登ると、お父さんが大切にしている実を、沢山もぎ取って来て、素早く葉籠の中に詰め込んだ。それから煮上げた犬の肉を、もう一つの籃に入れて、それを自分の肩に担いだ。そして檳榔子の籃を取って、それを妹の小さい首に結わえると、背に担がせてやった。逃げる用意が終わると、もう一時の猶予もならず、二人は、急いで村を発った。そして道々、歩みながら、
「ええい!
癪に障ったこの二人
こんなところに用はない」
と歌って行った。両親が帰ってみると、家の中は、死んだように静かだった。呼んでも叫んでも、答えはなかった。家内中隈なく探しても、まるで消え失せたようだった。しかもお嫁さんが可愛がっていた、大事な犬も見えなかった。お嫁さんは、それに気付くと、泣き出した。けれども暫くすると、今まで悲しんでいた犬のことなどは、まったく忘れてしまったもののように、今度は、見えなくなった子供たちのことを、悲しみ始めた。
村を飛び出た二人は、足取りも早く歩いて行くうちに、とある海辺の山に来た。乙女は、つかつかとその山を登って行ったが、男の子は、その岬をぐるりと回って行った。それから二人は、山七面鳥となった。
さて、こうして鶏になったものの、羽は大変弱く、また充分に飛ぶこともできなかった。それで山七面鳥が巣をつくるときには、木の葉や土で地面の上に築き、そしてそこに卵を産むのである。
そしてまたこれは、あなた方御自身で、ムラワの森に行ってみるとわかるだろう。

解釈

この話は子供に非があるようにも思う。が、ここで母親は犬を可愛がっているのである。この点で母に関して言うならば、欲張っているように思う。その原因が何かわからないが、子供の眼に自分達よりも犬を可愛がっていると映っているのである。しかし、母親が犬のことで悲しんだ後、子供のことで悲しんだところを見ると、どちらも大切にしていたというような、二心が認められるのである。この点で子供が正直であることからわかるように、母親は子に対してその正直な心を裏切る態度を示しているのである。つまり、母にとって子を一番にしなければならないという法が理解されるのである。したがって、ここでも母が悪いと出ている。しかし子はなぜ七面鳥になったのだろうか。この点が疑問である。母の愛情がないために、退化したのか、本当に母の罪と別に子の罪があったのか。または、悪魔に捕えられたのか。である。どちらにせよ、「母は二心で子を愛してはならない」という法があることは事実で、聖書にも「マタイ15:21~28」「マルコ7:24~30」にある通りである。

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魔法の枕

昔ある村で、三人の人が、一人の子供に加え得られた恥辱の復讐のために、殺されたことがあった。お話はその昔に遡る。ある日、山に住んでいる一人の男が、小さい子供を引き連れながらその村へやって来た。もうその時は夜であったため、その男は一夜を過ごそうと、子供を連れて合宿所に来た。丁度そこには、この村で乱暴で猛悪な性質で有名な男が泊まり合わせていた。それで、山から来た人が眠ろうとすると、あいにくそれが眼に止まったために、黙っていなかった。乱暴な男は、いつもの気性からむっとなり起き上がって子供を叩きながら、「お前、何の用があって来た、ここはお前のような乳臭い者の来るところじゃないということを知らないのか。出て行け」と割れ鐘のような大きな声で、怒鳴り立てた。
これを横で聞いている父親の心の中はどんなものでしょうか。しかし、その父親は、ひと言も言わず、そして起き上がると、子供を抱えて出て行った。これを見た乱暴な男は、うち笑い、「これから旅人と見れば、こうあたるんだ」と言いながら横になった。
それから数日後村人たちは、みんな魚捕りに出かけている間に、山の人は再び降りて来て、誰もいない合宿所に忍び込んだ。忍び込むときには、確か手に何か持っていたが、出てくるときには、もう何も持っていなかった。そして、さも何かうなずくような顔をして、さっさと、自分の家指して帰って行った。
やがて村人たちは、帰って来た。食事が済むと、魚捕りの疲れが一時に出て来て、急に眠くなったので、合宿所に入って、眠る支度をした。見ると、荒れくれ男の目の前には、思いがけもなく手頃の木枕があった。これこそ、あの山の人が、置いて行ったものだった。こういう好いものを見つけると、もう荒れくれ男は決して見逃しはしないのであった。その木枕を掴むなり、いつものように「おい、皆の衆聞け、これは俺様の枕だ。それとも取ってみようと思う者があるなら見事取ってみよ。」と言いながら、並みいる者どもを見渡していると思うと、この横柄な一言を残して、横になるなり高鼾を立てて寝付いてしまった。何しろ荒れくれ男のことですから、誰も手を出すものはいなかった。
一夜も明け、人々は、思い思いに床を離れると、村へと帰って行った。しかし、荒れくれ男は、一向に起きて来なかったので、人々も頭を傾けて不思議がった。そこで、ある一人の男が、合宿所の中に入って行って、荒れくれ男を起こそうと、恐る恐るその傍に近寄った。見ると、死んだようにぐっすりと寝込んでいた。その男は、思い切って、体を揺り動かし、続けざまに名前を呼んだ。しかし、余程よく眠っていたらしく、眼を開こうとしなかった。いよいよおかしく思ったその男は、なおよくのぞき込んでみると、全身氷のように冷たくなっていた。人々は、突然聞こえたけたたましい呼び声に、家の中へ駆け込んで、この始末にまったく驚かされた。
どうしてあの荒れくれ男がこのように静かに死んだのでしょうか。人々は口々に「誰か魔法をかけたのだろう」と騒ぎ合っていた。荒れくれ男の死骸は、やがて村人の手で葬られた。それからというものは村人は、この死人の呪いの名を決して呼ばなかった。その翌晩になると、他の男が、また主待ち顔なその枕を見つけて、これはしめたと、それを枕にしてネタ。するとその明くる朝になって、人々が起き出たとき、その男は、また冷たい躯となっていた。これを見た人々は「二人も続いて死ぬとは、いよいよ怪しい。さては、夜な夜なこの合宿所に、何か現れるのだな。これは警戒させなければならない。一つ見張りを置いて、招待を見届けようではないか」と申し合わせをした。そしてその決議通り、一人の番人が、終日合宿所の中に身を潜めて、見張りをしていた。けれどそれらしい者も見えないで、遂に日暮れとなった。合宿所の戸の外で友達と一緒に遊んでいたある小さい子供が、家の中に何がいるか見てやろうと、何気なく都に登ってのぞき込んだ。すると子供は、矢のように飛んで来た枕に頭を砕かれて、どっと落ちて死んでしまった。これを眺めていた番人は、あまりの怪異にびっくり仰天してしまった。しかも、さらに不思議なことには、この枕が、ぼんやりしている番人を尻目にかけて、いつの間にかまた元の場所に立っていることであった。我に返った番人は、凍り付いたような喉から、震え声を出して人々は集めた。飛んで来た人々は、大騒ぎして、子供の死体は、すぐにそのお母さんの所へ運ばれて行った。考えてみれば、あの枕は、もう三人までも人を殺していた。激昂した人々は、早速復讐の準備にかかった。山と積んだ薪束には、火がつけられた。すると力強くて勇敢な男が、化け物屋敷のように気味悪い、合宿所に駆け込んで、あの怪物の枕を持ち出してくるが早いか、燃え盛る炎の真ん中に投げ込んだ。するとあの枕は、まるで生きている者のように、もだえ苦しみながら、唸った。しかし、恐ろしい勢いで燃えている炎には敵わないものと見え、唸り声が聞こえなくなったころには、枕も、一塊の灰と化していた。 こうして燃え朽ちた灰は、吹いてきた風に乗って、山の村に飛んで行った。そこは、自分の子供の復讐をこうして仕遂げたあの山の人が、住まっていることろであった。

解釈

この話は不思議である。しかし、枕が何からできたのかとても興味深い。ここでは呪われた枕のように扱われているが、なぜ、子供が罵られた復讐に枕が出て来るのか。考えられる可能性として、思い浮かぶのは、子供を叱責することが印象に残りトラウマティックとなるゆえによい夢、すなわちよい未来が見えなくなり、自らの自己実現が湾曲を起こすゆえに、それがその悪い夢をもってして現れる枕となり、それによって、悪い未来、すなわち死が引き起こされたということである。このことは魂の問題に近く、それゆえに母性性が含意されているように思われる。つまり、枕も石臼と同じ類の物と考えられるのである。この山の家の住人がなぜ村へ降りて来たのかにもよるが、それは何か伝えるためだったのだろうか。

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不幸な人

昔二人の兄弟が、仲睦まじく暮らしていた。ところが、ここに端もなく一人の女が現れたため、この兄弟の間にも、激しい争いが起こったのだった。兄の方は、一人の女と結婚した。そして結婚後まもなく、猪の牙を買うためイリワフオ島に向かって出発した。兄は、その牙の首飾りを首の周囲に下げて、自分が酋長であることを、見せたかったのであった。出発するに当たって、お嫁さんのことは、よく弟に頼んで行った。けれどもこのお嫁さんという人は、大変悪い女だったため、弟が自分の思う通りに、欲しい物をくれないというので、ひどい目に遭わせてやろうと、計画を巡らした。それで夫が帰ってくると、そっと連れ出して、あることないこと巧みに並べ立てて、嘘を言った。兄は夫であるため、妻の言うことを信じた。
明くる日、兄は弟を誘って、飛び魚の卵を取りに行くことになった。やがて、二人は、一隻の丸木舟に乗って沖合へ漕ぎ出した。もう大分来たころ、兄は弟の油断を見澄まして、わざと自分の猪の牙を海中へ投げ込んで、さも過って落としたもののように、「やあ、これはしまった。それ、牙が海の中へ沈んでいく。早く飛び込まないともう取れない」と大声で叫んだ。これを聞くと弟は、沈んでいく牙目掛けて、海中へ飛び込んだ。暫くたつと弟は、呼吸が苦しくなったので、水面に浮きあがってくると、丸木舟は、もう大分遠いところに走っていた。弟は躍起になって「兄さん、戻っておいでなさい。早く船に乗せてください。」と叫んだ。けれども兄は、弟を睨みつけながら、「駄目だ、乗せて堪るものか、俺の留守中の天罰思い知れ」と言った。水中に浸っている弟は、意外な兄の言葉を聞くと、「お姉さんの悪行を止めるのが悪いというのですか」と叫んだ。
お嫁さんを信じ切っている兄には、弟の言うことは聞こえるはずがなかった。帰って悪し様に罵られたと思った兄は、さらに腹を立てて、芽生えまでしている一房の椰子のみを、水上に投げ出しながら、「よくも言ったな。お前の丸木舟はそこにある。それに乗って、そこにいるといい。俺は今から帰るからな」と荒々しく言った。そしてこの捨て台詞を残しながら、後は顧みないで、帰ってしまった。海岸に着くと、待ち構えていたお嫁さんが「弟は?」と尋ねた。夫は、今日の出来事、お嫁さんを悪し様に言ったことなど、一部始終を語って聞かせた。さて、真実が洩れはしないかと、お嫁さんは、内心ひそかに心配し始めた。そのうち夫はそれとなく近所の人たちと話していると、いつとはなしに、弟の言葉が間違いでないということが分かった。それと同時に後悔の情が心に起こって来たので、無実の罪に陥れた弟が、可哀想でならなくなった。そして、見つかりはしないかと、海岸に出て探してみたが、それも結局駄目だった。仕方なく引き上げて来た兄は、腹立ちまぎれに、嘘つきの妻をひどく懲らしめて、弟の復讐をしてやろうと考えた。そこで「本当のことを言え、いったい何をしたのか、大事な弟を殺してしまったのも、それはお前の毒舌のせいだ」と叱りながら、今にもお嫁さんを殺さんばかりになった。けれどその途端、「可愛い俺の妻だ」という考えが頭の中に閃くと、気が緩んで元気が抜けてしまった。こうしてお嫁さんの命は、救われた。もしさっきのままの気持ちであったら、お嫁さんの命も、亡くなっていたことだろう。
さて、弟の方はどうなったのであろうか。海中へ一人残されて、ただもう死ぬばかりになっていた弟は、兄が投げ込んだ椰子の実に両腕を托して、幾日も海を漂っていた。そしてお腹が空くと、水面に浮いている飛び魚の卵を食べて、僅かに飢えを凌いでいた。東風が吹いてくると、「おお、東風、注意して吹け」と叫んだ。というのは、東風に吹かれたら、ますます沖へ流されていくからであった。北風が吹いてくると、「おお、北風よ、私はお前を待っていた。」と叫んだ。というのは、こうして海岸へと吹き流されて行くことを祈っていたからである。そして、北風を背に受けて、幾日か海の上を漂いながら、とある見知らぬ島に漂着した。
長い間水上を漂流したため、椰子の実から生えた根は、二つの足にぐるぐると巻き付き、また青々とした若葉は、髪の毛に絡みついていた。島に流れ着いたときには、こういう有様で、ろくに食べ物を食べていなかったため、体は綿のように疲れていた。それで一本の木の下へ這うようにしてたどり着くと疲れ切った体を横たえ眠りついてしまった。
すると夢に美しい乙女が現れて、側に近づいてきた。夢破られた弟は、まだ半分夢心地でもしやあの美しい乙女がいはしないかと、海岸へ降りて来た。するとそこには夢に見たままの、あの乙女が立っていた。しかも自分ながら恥ずかしいような汚い姿も構わず、どう思ったのかこの男がすっかり好きになって、結婚を願った。やがて乙女に連れられて、その住家の山の村に来た。乙女は、男の足についている根を抜いたり、湯浴みさせて薬草の葉をその皮膚に張り付けてやったり、椰子油を体に塗布(とふ)してやったり、髪の毛に絡みついた葉を解いてやったり、かいがいしく介抱してくれた。今まであれだけ汚かった姿とはまるで別人のように、見上げるほど立派な若者なった。丁度この時、ここにまた一人の乙女が現れた。美しい乙女と同じように魔法使いであったこの乙女は、一目若者の姿を見るなり、内心ひそかに心を惹かれたので、「私こそ、この旅人のお嫁さんにならなければならないのよ」と側の美しい乙女に言った。美しい乙女は慌てて、「妹、何を言うの。海辺に倒れておいでなさったこの方は、誰が見つけたと思うの。この方は私のものよ」と答えた。こういい詰められては、乙女も仕方なく帰って行った。けれど一度心の中に燃え上がった増悪と嫉妬とは、なかなか消えはしなかった。
男とお嫁さんとは、別にそれには気にも留めないで、しばらくは何事もなく打ち過ぎた。幾月かの後、太陽が海上遥かに輝いて居る頃、二人の間には可愛らしい子供が生まれた。ある日お嫁さんは、夕食の支度の芋掘りに行き、夫は子供と一緒に、家の中でぐっすり眠っているときのことであった。突然魔法使いの乙女が、そっと家の中に忍び込んで来た。見ると、その手には鋭い石斧が光っていた。嫉妬の情に燃え立った乙女は、いっそ一思いに殺してしまおうと思ったのであった。こうして前後に不覚に寝入っている男の間近に忍び寄った乙女は、細い腕に全身の力を込めて、鋭い石斧で刺し殺してしまった。そして雲を霞と逃げ延びた。それっきり乙女は帰って来なかった。
小さい子供は、お父さんの体から迸りでた血に塗れて、その傍に枕を並べて死んでいた。何も知らないお母さんは、彫り上げた芋を持って、、急いで帰ってくると、地面は生々しい一面の鮮血、しかもその中には、血糊に塗れた夫と子との死骸が横たわっていた。びっくりしたお嫁さんは、気も転倒せんばかりに芋を投げ捨てると、わっとばかり泣き伏せた。それから数日の間というものは、家の中から泣き声が聞こえ続けていたという。

解釈

この話は、兄弟の間を裂く女の話であるが、この手の話はエジプトやベトナム、アフリカにも見受けられる。そもそも兄弟の間が裂かれた理由が女である可能性は否めない。このことは、男女の愛よりも兄弟の愛が尊く、また難しいことを意味している。そして、ここでは、兄の嫁によって弟を海に置き去りにした結果が、弟の結婚のきっかけとなっている。さらには、二人の女性からの好意を得てして、嫉妬によって殺されている。このことは、もちろん双子とも関係していると考えられる。兄弟愛は愛の最大の難点である性別と世代、を除外したあらかじめ存在する有限絶対の愛すなわち家族の血のつながり、から出ており、それゆえ障害となるのはただ未来に関する自己実現のみである。しかして、世代や性別が全く皆無というわけではない。それは性格や単に年の差において現れている。この兄弟愛に対して暫しこの手の神話で現れて来る女が、いかに与えられるのかについて考えるならば、それは兄弟愛と異性愛に関しての違いを試されていると言えるだろう。この話では、それは一人の女に対して二人の男がいると、女がおごり高慢になり、また、二人の女が一人の男に思いを寄せると、それは嫉妬となるということが描かれている。この女性性は、女性がある一つの有限的な心的概念を有しており、それがすなわち異性愛を目的としているということが関連している。そして、前者の場合、すなわち兄弟の間の兄の嫁が高慢となったのは兄が年上であり、また別の男である弟が自分といるゆえにあたかもその一つの有限の心意的概念を傷付けるかのような被害妄想を誘発する感じによって驕りと怒りが混ざったような敵意が性欲に変わるためである。このために弟は夢に乙女を見ている。そしてそれが予知夢となっており、またそれを阻む女が現れる。ここに兄弟を鏡写しにしようとした痕跡があり、すなわち兄弟愛に関する互いの懐疑は女の憎しみとしてあらわれている。つまり、この鏡写しは本来の懐疑的な我慢や、固定という変化しない要素を理解できないのである。これは変化の元型と近いもので、また鏡でもある。ほとんどの場合、女ゆえに皆兄弟愛に立ち返るようにできている。ただこのような現象を引き起こす悪魔をいまだ見たことがない。

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蛇児

昔、猟に行っていたクラワ部落の人々が、一匹の蛇を見つけたので、早速それを殺し、家に帰りつくと、それを燻製にした。そして夕食のご馳走にしようと思っていた。丁度その傍にいた乙女が、これを見て、「蛇のご馳走をお上がりになるのですね。私にも少し頂戴よ」と言った。人々は、喜んで尻尾の所を切ってやった。乙女は、目を白黒させてそれを食べていた。その味は、まるで舌もとろけそうにまで美味しいので、乙女はまた、「どうぞ、もう少し頂戴」とねだった。で、人々は、その長い胴の一部を切って与えた。乙女は旨そうに舌打ちしながら食べていた。味を占めた乙女は、また願ってまた一片貰い、またもらうという具合で、こうして残ったのは、頭ばかりとなった。乙女は、またそれまでせがんで、そしてすっかり食べてしまうと出て行った。
程なくその乙女は見るも恐ろしい蛇に似た子を産んだのだった。我が子ながら恐ろしくてならないので、母親は、その子を置き去にして、海を渡ってイリワフオ島という大きな島に、逃げて行った。雨は篠つくように降り注いでいた。雷は、天地も覆らんばかりに鳴り響いていた。それはものすごい嵐であった。けれどもお母さん恋しいの一念に駆られた蛇は、その後を追っかけながら、泡立つ海上を泳いで行った。イリワフオの島民たちは、だんだん近づいて来る蛇を見て、何が来たのかと言い合っていた。お母さんは我が子の姿を見つけて、「あれは蛇ですよ」と叫んで、さらに海を渡って逃げて行った。そして上陸したところは、ボラナイという島であった。けれどもここでも安全でないと思ったお母さんは、島の住民たちに、「早く棒片をこしらえて、先を槍のように尖らせなさい」と言った。人々は、すぐにその通り沢山作った。お母さんはこれを見て、「ここを見張っていてください。私はあの家の中にいますから、まもなく一匹の蛇がまいりますでしょう。そしたら容赦なく、lずたずたに切り刻んでください」と言った。やがて待ち受けていた人々は、蛇が村に入ってくるが早いか、ずたずたに切り裂いてしまった。けれども美味しい蛇を、むざむざ捨てるのも惜しいというので、切れ切れになったのをかき集めて煮上げると、集まって来た人々は、「私たちはあの女が言ったように、充分にしてやったんだ。だから、本当にうまく食べられる」と話し合っていた。すると一人のお婆さんが、一座の人々に対して「いや、この美味しいご馳走の記念を残さないで、そのまま忘れさせてしまうのは、なんと残念な話ではないかね。私に少しばかりおくれ、一つ家の畑に着くかどうか、植えてみましょうから。」と言った。それで人々は、少しばかりその肉を与えた。お婆さんは急いで持ち帰って、畑に植えて置いた。すると程なく、その肉から芽が出て、茎となり、葉と茂り、だんだんと成長した。近所の人々もこれを見て不思議に思い、一人来、二人来しているうちに大勢やって来て、この不思議な植物の若葉をめいめい摘み取って、自分たちの畑に植えつけた。それらもまた、次第に成長して、丈夫になっていった。そして多くの人々は、その根を食べてみて、その美味しいのに驚いた。それもそのはずであった。この植物の名こそ芋と言って、食べ物の王であったからだった。こうして芋というものはできた。またこういう理由のために、ボラナイの人々は、常に自分の畑に、大きなのを沢山植えているのである。

解釈

蛇を食べた女が、蛇の子を産みその蛇を退治して、植えた結果芋となった。という話。そもそも女は自己中心的に考え蛇を一人で食べてしまい、そして生まれた子供を退治するように皆に頼んだというなんとも傲慢極まりない話である。自分の子供が母親を求めることを物とも思わず、殺してしまう力がどこから湧いて来るのか知りたいものである。この結果できたのが芋であり、メラネシアでは芋をよく食べるらしく、また、女が畑仕事をさせられる点を考えると、この女の罪はすなわち農作業の労働ということになり、それゆえに魚は制限されていると考えられる。ただ、この女の所業が鳥と蛇の関係にあるという疑問が消え失せない点で、これはその話と関連していそうな気がする。であるとすると、これはメキシコで現れる鶏とも関係があるかもしれない。

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蟻の豚狩

昔、蟻と雉(きじ)とは、友達だった。ある日二人は、打ち揃って猟に行く相談をした。そして豚追い網を持って、出掛けた。手頃の場所に着くと、その網を張った。雉の飯田市で自分は網番、そして蟻は勢子(せこ)となって、獣どもを網へ追い立てる役となった。暫くすると蟻は、一匹の豚を見つけて、それを網の方へと追い立てた。意外な敵から襲われた山蓋は、網の方へ突進してきた。肝心網番の雉は、これを見ると、あまりの威勢にびっくり仰天して、側の一本の木へ駆け上った。網番の姿が見えないのに喜んだ豚は、小躍りしながら網から逃れ出た。すると、やっと降りて来た雉は、豚のいないのを見澄まして、これはどうするつもりか、両翼に泥を塗りつけた。そして蟻の来るのを、待ち受けていた。程なく蟻は、息せき込んで走って来た。雉の姿を見て豚の行方を尋ねた。雉は「綱に突進してきやがったから、汲みついてひっ捕らえたら、投げ飛ばされて泥の中に落ちた。まあ、この両翼を見てくれ」とさも誠らしく言った。
この雉は、大変嘘つきだった。というのは、自分の親友までにも、嘘を言うからである。蟻は少しも咎めないで、「じゃあ、また他の場所を探して、新しく網を張りなおすことにしよう。今度は、この私が見張りをする」と言った。やがて網はまた新しく張られた。すると一匹の豚が、網目掛けて飛び込んできた。そして今度は、蟻のために見事に殺された。勢子となって獣を駆り立てた雉は、程なく帰って来て、豚のゆくえを尋ねた。蟻は揚々として、木の横を見る様に答えた。雉は、言われたところを眺めると、一匹の豚が横たわっていた。二人は、それを棒に結わえて、それを担ぎながら帰って来た。
家に着くと、早速お料理に取り掛かった。蟻は、雉に向かって、「これから臓腑を河に持って行って、洗って来ておくれ」と言った。そこで、雉は言われた通りに河へ行き、家には蟻一人残っていた。すると大きな犀鳥が戸口に現れて、恐ろしい声で怒鳴りこんだ。けれど豪胆な蟻は、恐れるどころか、癪に触って、かっとなった。そして飛びかかりざま、たちどころに殺して、敷物に包んでおいた。そのうちに雉は帰って来た。見れば、手には何も持っていなかった。蟻は、不思議に思って、「おい、豚の臓腑はどうした?」と尋ねた。雉は、「あれはすっかり鰻に取られた」と元気なさそうに答えた。蟻は優しい声で、「心配することはない。お願いがあるから、こちらへおいで。そのついでに私の敷物を持ってきておくれよ。その上に座りたいから」と言った。
雉は、何気なしに敷物を持ち上げると、すぐに犀鳥の躯に目をつけて「おい、冗談じゃない。いったいどうして俺の従弟を殺したのだ。えらいことをしてくれた。犀鳥の沢山な親戚どもが、大変復讐心に強いのは、ご存じだろうな」と叫んだ。が、蟻は大胆に「俺は、お前も、お前の親戚も少しも怖くない。これからその人たちの所へ行って、今日の模様を話して来てはどうだい」ときっぱり言った。
雉は、でて来た。そしてすべての鳥どもに、蟻のしたことを物語った。みんなは、ある一つの場所に集まって、今後の計画を評論した。その末、蟻を殺して、犀鳥の仇を討つことに定めた。早くもこれを知った蟻は、木の頂上に登って、寄せて来る鳥どもを片っ端から殺した。こうして見事鳥どもを退治した蟻は、木の葉を綴り合せて家を作り、その中に座っていた。悪戦苦闘の末、ことごとく敵を返り討ちに遭わせたと思うと、愉快でならなかった。
けれども、こうして静かに家の中に住まっているとき、突然敵が現れた。それは、一匹の大鴉で、飛び上がって来て、嘴で肝心なこの巣を、木の枝から突き切ってしまった。苦も無く摘み取った大鴉は、中にいる蟻と一緒に巣をくわえて、海岸へと飛んで行った。そして、そこで立った一飲みに、蟻を飲み下してしまった。さすがの蟻も、こうして罷業の最期を遂げた。蟻は殺され、犀鳥の仇討ちは仕遂げられたのである。

解釈

この話では、蟻と雉、両者には特に状態に関する洞察が優れた点がある。雉は嘘つきであったため、蟻はこれを最初の嘘の後、犀鳥が攻めて来たことで察知している。雉はしかし、蟻が許したことを見て、再び同じ手が通用すると考えているようである。そこで、取った豚を鰻に取られたということも嘘であると考えられる。
しかし、蟻は鳥を倒したが、最後、鴉に食われてしまうという点では、シベリアのタンゲンの話との関連性をも見いだせる。しかし、その時代がすなわち太陽を食べた時代で、マウイの神話や、レメク、またはパンドラの箱が開けられた時代と同時代であるかが見いだせない。この時代、鳥どもが重なって太陽をどうにかしようとしていたのだろうか。その点で、太陽のために動いた者の一人に蟻が数えられるということであろうか。

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猪殺し

あるところに猛悪な猪がいて、住民たちはそれを恐れていた。というのは、どんな日でも人の一人や二人は、夜になっても村へ帰って来なかった。それはあの猪の餌食なったということを村人は知っていたからです。明日の餌食は自分ではないかと人々は震えながら、安からぬ日を送っていた。したがってこの恐ろしい猪を罠にかけてやろうと、計画はどのくらい巡らされたか知れないが、それらの計画も、一つとして成功したものはなかったのです。こういう苦い経験をしているとき、村の知恵袋とまで言われた老人が、いっそこの地を見捨てて、ほかに安全な場所を探す方が賢い策に違いないと村人に勧めた。これを聞いた村人たちも、なるほどだと思ったので、家財道具を丸木舟に積み込むと、猪の追って来ることのできない、他の安全な場所指して、ひそかに出発した。けれども村人たたいがあまり急ぎ過ぎたので、一人の女が取り残されてしまった。女は、ひっそしとした村に、一人取り残されたのを知ると、知り合いを呼んで泣き叫んでいた。けれど女は元気を出して立ち上がると、猪除けとして、穴を掘った。昼中は、その穴の中に寝ていて、夜になると、猪の眠っている間を見澄まして、食料を探すため畑に這い出て行った。そのうちに、一人の子供が生まれた。こうして土の穴の中で生まれた子供は、穴の中で乳を飲み、穴の中で日毎に成長していった。時々子供は泣き出した。怒ったり、気に入らなかったりするためであろう。するとさも怖そうに眼をぎょろつかせて母親が「早くお黙り。怖い猪が食べに来るよ」となだめていた。子供は、母親のこの声を聞くなり、はたと泣き止んだ。けれどお母さんがあんなに怖がっている猪とは、いったい何だろうと、小さい胸にも疑いを抱いていた。子供も大分大きくなったある日、お母さんに向かって、「お母さん。私たちは、なぜこの土中の穴に住まっていなければならないのでしょう。なぜお母さんは、日中が怖いのですか」と尋ねた。するとお母さんは「昔は、こんな穴の中なんぞに住まったことはないよ。お前のお祖父さん方も、それから叔父さんたちも、この私も、ずっと明るいおてんとうさまの下に住んでいたのです。それにある恐ろしい敵が現れて、村人を殺し、沢山な人たちを食べました。そしていまは私一人っきりです。こうして私は、この穴を掘ってこの中に隠れながら暮らしてきました。お前さんもここで生まれたのです。」と話した。お母さんの話を、熱心に聞いていた子供は、「本当に私が子供だった時分には、何の役にも立たなかったっでしょう。けれども、いまはもう一人前の男です。お母さん、ご安心なさい。どんなことがあっても、その憎い敵には、一爪でも触れさせませんから」と優しい言葉をかけた。
それで若者は家を作って、まさかの場合、猪に備える準備をした。まず多くの若木を組み合わせて小さい懸台をつくり、それらを少しずつの間隔で、つなぎ合わせて行った。仕事が終わった時は、その懸台小半町ほど続いて最後の台は、猪の洞穴間近に迫っていた。それから木で作った沢山な槍を行く束かに括って、その一つ一つの懸台ごとに一束ずつとおいて行った。おまけに二つの大槍をこしらえて、お母さんに渡しながら、必要な時が来るまでは納めていてくださいと頼んでおいた。この二本の槍はカラガニガニ、カラカテカテというのです。お母さんは大変驚いて、「あの猪というのは、それはそれは、恐ろしいのだよ。油断はなりません。あれのことだから、確かに飛びかかって、私たち母子を殺すでしょう」と言った。若者は、お母さんの心配そうな言葉を聞いて、「なに、ご心配には及びませんよ。それよりか、ここで見ていましょう。ああ、お腹が空いた。ごはんがいただきたいですね」と言ってあくまで落ち着いていた。
お母さんは、早速ごはんの用意を整えて、若者の前に置いた。お腹がいっぱいになると、若者は、勇んで猪退治に出掛けた。一番洞穴に近い台の所まで来たとき、若者は、その上に立ち止まって、用意の槍束を解いた。洞穴の奥のほうは仄暗くて、いかにも魔物の棲家らしかった。若者の心は半分好奇心と半分勇猛神とで踊っていた。やがて一本の投げ槍を掴むと怪物の潜むところ目掛けて、投げつけた。すると恐ろしい唸り声が聞こえたと思うと、体を刺されて痛さに狂い立った猪は、洞穴から突進して来た。その瞬間、若者の手に握られた沢山な槍は、雨のように猪の体目掛けて降り注いだ。が、まるで風に吹き落されるように、それは、苦も無く払い落とされてしまった。それと知った若者は、飛びながら懸台の上を走って行った。猪は、懸台の横にそって地上を走っていく若者を追いかけた。若者の危険は、刻一刻と迫って来た。猪はだんだんと急迫して来て、噛みつけるところまで迫って来た。けれどその時若者は、ひらりと身を躍らすと、次の懸台へと飛び移っていた。そこにはまた、あの束にした槍が置いてあった。若者は、その束を取るが早いか、それを解いて、また、雨のように槍を投げつけた。槍は、沢山で大変鋭いけれど、猪は降り注ぐ槍を打ち払い、ますます若者の身辺へと迫って行った。再び若者は、次の懸台へと、身を躍らせた。こうしていくつかの台を越えて走っていく中に、とうとうお母さんが住んでいる家の前の懸台まで追い詰められた。さっきからはらはらして戸口から眺めていたお母さんは、子供のこの危急を目前に見てじっとしていられなかった。老い先短い命を賭したお母さんは、大切にしていたあの二本の槍を持って、家から飛び出たと思うと、素早くそれを、若者に渡した。若者がこの二本の槍渡すとき、「必要な時」といった、その時が今来たのである。猪は、総身の荒げ逆立てて、牙をかき鳴らしながら、若者目掛けて飛びかかろうとしていた。お母さんは、あっとばかり両目を伏せてしまった。若者の体が、あの毒牙にかかって、ずたずたに裂かれたと思った瞬間、ぎらりと光る大身の槍、紛ごう方なくカラガニガニ、それは骨も徹れとばかり、猪の横腹に差し込んだ。飛び散る鮮血はしぶきとなってあたり一面を唐紅に染めた。さすがの猛獣もこれでひるむかと思うと、最後の勢いを総身に込めて、ますます奮い立ってきた。が、この怪物の運命の定まるときがついに来た。若者の右手に握られていたカラカテカテの大身槍は、さも血に飢えたようなすごい音を立てながら、総身の力を込めた若者の腕を離れて、猪の喉元にとどめを刺した。猪は幽かな最後のうめき声をあげて、遂にその死骸を地面に横たえた。この瞬間恐ろしさに半分心を取り失っていたお母さんの心にも、大敵の爪牙(そうが)と戦っていた若者の心にも歓呼の轟きが、一時に起きた。二人は嬉しさの余り、思わず太鼓を叩き踊った。見れば恐ろしい猪、その肉は切り取って、たいていは燻製にし、一隻の筏を作って、猪の背に生えていた剛毛をその上に積んだ。そして剛毛に向かって、「波と風とに送られて、お前たちは、これから遠いところへ行く。どこへ行こうと、喪服をつけていない人を見受けたところには上陸するな。もし喪服をつけた人がその海岸に現れたときには、お前たちも上陸するがよい。さあ、行け」と特に因果を含めてやった。そして筏を送り出して、また太鼓を叩き始めた。小さい筏は、波と風とに弄ばれながら、果てしないさすらいの旅を、あちこちと 続けて行った。そして子供たちが遊んでいる、あの島に流れ寄った。子供たちの中の一人がふとこれを見つけて、「筏が見える。みんなであれを引き上げてみよう」と大勢の子供たちに叫びかけた。これを聞きつけた子供たちは、集まって来た。が、大勢の子供たちが、筏を捕まえようと手を伸ばすと、それは、不思議にも一人で二後へ退いて行った。子供たちは、騒ぎ立てながら、行き鵜戸もとらえようと焦っている。が、そのたびごとに筏は、逃げる様に沖へ沖へと、流れて行った。するとその中の一人が、お父さんの所に走って来て、「お父さん、面白い物を見つけたよ。海の上に浮いて居ながら、近寄ろうとすると、逃げてしまうのだよ」と告げた。お父さんは、ついそれが見たさに子供に連れられて海辺へ来た。そして水の中まで入りながら、その筏を追いかけた。すると前と同じように、筏は、やはりするすると後戻りして言った。というのは、この人は喪服をまとうていないからであった。水は、その人の足から膝へ、膝から進んで股までと上って来た。遂に泳ぎながら、へとへとになるまで追跡したが、筏には触れることもできなかった。泳ぎ疲れたこの人は、仕方なく岸へと帰って来た。すると憎らしいほど逃げて行った筏は、その人の後について来て、再び岸間近に来た。丁度このとき喪服をつけた一人の男が、海辺に現れていた。その顎髭は、樹の根の表に長く、茫々と生え、両腕には、柳枝細工の腕輪をそれぞれはめていた。この男の姿を見ると 、子供たちはいっせいに、「御覧、奇妙なものが浮いているよ。それそこの水の上に」と叫んだ。さっき筏を捕ろうとして失敗した人は、一部始終をこの男に物語って、今度は自分に変わって取ってくれと、願った。喪服をつけた人は、すぐに承諾して、筏の方に近づいた。するとあれほど逃げ回っていた筏は、招かないのに向こうから、打ち寄せる波に揺られて近づいて来た。喪服をまとっている男は、近寄った筏を捕えた。多くの人々は、何がその上に載っているかを見てやろうと、よりたかってきた。見ると不思議なものが乗っていて、その正体を聞き出そうと、村へ持ってきた。
偶然にもここは、むあk氏、あの恐ろしい猪を避けるために、村を逃げ出した人々が落ち着いた所であった。それでこの剛毛を見ると、島人たちはみな、古い記憶を呼び覚まして、それはあの猪の剛毛だということを知った。同時誰がこれを流したかという疑いが、人々の頭に浮かんだ。ある人は、「これは、確かに私たちがあの村に取り残した女の子供の仕業に違いない。が、それにしてもm、どうしてこんなことがされたのかな」と言った。するとまた他の一人が、「一つ行って、実際見てこようじゃないか」と言った。一度去ったところにまた帰るのはいけないと、反対する者もあったが、遂に決行することになった。一隻の丸木舟ができあがると、五人がそれに乗り組んで剛毛が筏で流されて来た由来を尋ねるために出発した。さて、いよいよ目的の地に着いたが、村人たちは、やはりまだあの恐ろしい猪がいはしないかと恐れて、上陸しようとしなかった。海辺近くに漕ぎよせたまま、上がろうかあがるまいかと長い間ためらっていた。猪を退治した若者は、この有様を見て、顔を彩り、羽の頭飾りをかぶり、槍を数本肩に担いで、人々の前にやって来た。そして、「皆さん。昔は沢山織られた皆さん方を、猪の奴が食べたそうですね。が、ご安心しなさい。今は、もうそんなものはいないのです。それは私が退治しましたからね。さあ、安心して上陸しなさい」と驚く人々に挨拶した。人々は、半分安心したように、船を渚に寄せると、若者に連れられて、その家へ行った。見ると猪肉の燻製が沢山あった。人々は、いよいよ驚いて、「まあ、いったい誰の助けで退治したのですか」と尋ねた。若者は「誰でもない。この私が、私を助けたのです。私がやっつけました」と若者は答えた。
並みいる人々は、人間という者は、そんなに強いものであるかと、初めて知ったように驚いていた。そして急いでもとの島に引き返して来て、元の古巣に帰ろうと、人々に勧めた。村人たちは、また元の懐かしい古里に引き移って来た。淋しく荒れ果てていた故郷の村は、再び沢山な人々で賑やかとなった。そして何より、人々はあの猪肉のご馳走に、腹鼓を打った。しかも、恐ろしい大敵を見事屠ったあの若者は、全村の酋長と仰がれて、平和に全村を治め、また村人から慕われたという。

解釈

この手の子供が成長して村の英雄となる話は、北アメリカの神話伝説に多いのであるが、メラネシアではなかなか見ないタイプである。ここでは猪を倒した槍であるカラガニガニ、カラカテカテが非常に大きな意味を持っていると思われる。カラガニガニはおそらくルーンセイバー、カラカテカテはホーリーランスと思われる。ここに悪意が増長したときにはルーンセイバーを使わなければならない契機があり、命を奪うときというのはホーリーランスでなくてはならないという善意と悪意の理由があると考えられる。この話はメラネシアでは比較的ハッピーエンドとなる内容である。

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喉の開いた男

昔ある村に喉に穴が開いているという、いたって珍しい男があった。食べ物を食べるときも口からは入れないで、その穴から入れるという。ある時二人の孫たちがこの有様を見て、おかしくてならないので思わず笑いだした。すると大変腹を立てて、一つ懲らしめてやろうと思ったので、猫撫で声を出しながら、「お祖父さんは、これから丸木舟で旅をしてこようと思う。お前さん方は、どうかね。連れて行ってあげようか」と孫たちに行った。すると兄の方が「ありがとう、お祖父さん。けど、水を壺に入れて持っていくよ。弟が海の上で欲しがるかもしれないからね」と答えた。お祖父さんは、「いや、それには及ばない。もう、ちゃんと用意してあるから」と嘘をついた。すると兄の方は「そうですか、それでも喉が渇いたときの用意に、椰子の若実くらい持っていきましょう」と言った。お祖父さんはこれを聞いて「そんな心配は無用、ちゃんとお祖父さんが沢山積んであるよ」とまた嘘を言った。それからその子供は、芋や砂糖黍などを持っていこうと言った。けれどもお祖父さんはやはり同じように答えた。やがて用意が済むと、三人は出発した。
船は櫂の音を立てながら、だんだんと進んで行った。暑い太陽は頭に照り付けていた。二人の子供はへとへとに弱ってしまって、兄の方は「ああ喉が渇いた。お祖父さん椰子の実を一つください」と言った。するとお祖父さんは「なぜ自分のは、自分で持ってこなかったかな。お前方にあげるようなものはここにはないよ」と言った。兄の方はまた、「では、あの砂糖黍を一本頂戴」と言った。お祖父さんは「お前方の砂糖黍ってどこにあるのかね。自分の物なら自分で持ってくればよかったのに」と冷ややかに尋ねるような口調で言った。兄の方は「お祖父さん、御覧、弟は可哀想に、大変喉が渇いて苦しんでいるよ。水瓶の蓋はどこにあるの。弟を助けてください」と言った。お祖父さんは「いや、やれるもんか。そんなに欲しかったら、なぜ持ってこなかったのかい」と答えた。
それを聞くと孫たちは黙り込んで、ただ漕いで行った。遂に家と手もなく、食べ物もないある淋しいところへ着いた。それから二人は、お祖父さんの言いつけで、おとなしく加勢をしながら、船を海岸に引っ張り上げた。見るとすぐそこに、パンダヌスの木が生えていた。喉が渇いていた兄弟は、もう堪らなくなってその傍に駆け付けるが早いか、ぐいぐいとその実の汁を吸い始めた。これを見たお祖父さんは、しめたと思い、二人の隙を伺って、こっそり船を出してしまった。二人は、餓鬼のようになって実を食べていた。船が、もうかなり沖合に出た頃、弟はふとそれを発見して、兄に叫んだ。二人は、今までの食い意地はどこへやら、一所懸命になってお祖父さんの名を呼んだ。するとお祖父さんは、二人の叫び声を聞きつけて「いいよ、しかし、六日の後のことだ。それまでお前たちはそこで待っているといいよ」と言いながら、船をぐるっと回して、早く漕いで行った。間もなくその影も、見えなくなった。火ともいない見知らぬところに、こうして取り残された兄弟は、怖くて大声で泣いていた。けれどもそのうちにお腹が空いたので、またパンダヌスの木に登って、その果物の汁を吸い始めた。丁度この時一人の魔法使いの老婆が、二人の子どおmが淋しい場所で、パンダヌスの実を吸っている夢を見た。目覚めたお婆さんは、立ち上がって、幾日かの旅の後、夢に見たところにやって来た。夢に見た通り、そこには二人の子供がいた。けれども魔法使いだと見て取った二人は、怖がって木を降りなかった。お婆さんはこれを見て、「その木の上で何をしているのかね」と尋ねた。二人は声をそろえて「お祖父さんが、私たちをこの淋しいところに残したまま、帰って行ってしまったんだよ」けど六日たったらまた来ると言っていたよ」と正直に答えた。お婆さんは、それを聞くと大変可哀想に思って、「降りておいで。ね、そうすれば、また、何とか面倒を見てあげよう」と言った。二人は「嫌だよ。降りて行けば、お婆さんが私たちを殺してしまうだろう」と答えた。魔法使いは「何もそんなに怖くないよ。別にお前方を殺そうというのじゃない。さあ、降りておいでね」と言った。 二人はやっと安心して降りて来た。お婆さんは殺すどころではなく、かえって二人の身の上を可哀想に思ったので、大変いたわりながら、お祖父さんが来るのを待ち受けていた。
いよいよ六日目の日となった。お婆さんが、海の上を見ていると、次第にこちらに近づいて来る一隻の船があった。お婆さんがこれを見つけると、太陽に光線で焼いてしまうように言いつけた。すると太陽は今まで大切に包み隠していた光を一時に射かけたので、お祖父さんは激しい光に見る間に焼かれて、喉は全く渇きついてしまい、苦しんだ。この様を眺めていたお婆さんは、雨の神に向かって「あの男目掛けて、降り注げ」と言いつけた。すると天の一部が裂けて天いっぱいの水が、そこから一時に流れ出たように降り注いで来たので焼けかかった体は、今度は渦巻く水の中へ溺れそうになった。それから折を見澄ましていたお婆さんは、もう一度太陽に言いつけて焼かせた。こうしてさんざん苦しめられて海岸に近づいた頃には、もう立って居てもたまらないほど、喉がからからと渇いていた。で、よろよろと陸に上がるが早いか、すぐ近くを流れている、とある渓流に走りつけて、水を飲もうと腰を曲げた。けれど魔法使いは、真珠の貝殻で、その水の流れを止めてしまったので、僅かに数滴の水が、滴っているばかりであった。乾ききっているお祖父さんは、苦しさのあまりもうそんなことには頓着しなかった。その数滴の水も残らず嘗め尽くしてやろうと、ずっと腰を曲げて、河の中へ顔を差し込んだ。その時魔法使いは、川の中に差し込んでいた真珠貝の殻を上げた。すると、今まで魔法で止まっていた川の水は恐ろしい勢いで、一時にどっと流れ落ちて来て、そしてその喉の中へ流れ込んだ。さんざん責めぬかれたお祖父さんは、遂にそのために喉を詰まらせて、敢え無い最期を遂げたのです。こうして孫たちは、ひどい目に遭わせたお祖父さんの手から、無事救われた。けれどこのお祖父さんの死に方からして、土民の間には
「まず食べ、しかる後に飲め
渇してまず飲むは、
飲水による肝臓破裂の基なり」
というような諺が言われている。

解釈

この話は謎が多い、まず喉が開いたお祖父さんというが、なぜ喉が開いているかが不明である。次に魔法使いのお婆さんであるが、こちらも太陽と雨を使っている点で不思議である。兄弟は助かったが、特段その後についても書かれていないところを見ると、それは本当に諺のできた由来に過ぎないかもしれないが。今のところこの話に言及できるところは少なそうである。

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赤い葉の樹

昔、ある女に三人の男の子供がいた。お母さんが死んだので、子供たちは、手厚く葬式をしたが、時折思い出しては嘆き悲しんでいた。ある日、お母さんのお墓から、赤い葉の木が生え出て、やがてそれはボレヴイという美しい茂みとなった。風が吹くたびごとに、その赤い葉がひらひらと翻るので、兄弟たちは、まことに柔らかい葉だということに気づいた。しかし、あとでそれが、自分達の妹になるとは夢にも思っていなかった。
ある日兄弟たちは、お母さんの追悼の宴のために、何か取ってこようと揃って猟に出掛けた。こうして誰もいない間に、ボレヴイは、墓場から降りて来て、乙女の姿となった。それから兄弟たちの家に忍び込んで、皆のため食事の用意を済ますと、素早く墓場に戻って来て、再びボレヴイの姿となった。永い一日中の猟で、兄弟たちは、空腹で帰って来た。突然皆の目には、大きな鉢に盛り上げた旨そうな食べ物が止まった。不思議に思った兄弟たちは、唾を飲み下しながら、家の隅の方に座っているお祖母さんに、「誰がお料理したのですか」と尋ねた。するとお祖母さんは「さあ誰かね」と答えた。けれどももう堪らなくなった兄弟たちは、旨そうにそれを平らげてしまった。しかし、誰がそれを用意して置いたかは、みんな知らなかった。明くる日もまた、同様なことがあった。それで兄弟たちはいよいよ怪しんで、その正体を見届けることに定めた。朝になって二人の兄は、一番末の弟を、壁に立てかけてあった砂糖黍の堆積の中に隠して置き、そして自分たちはそこから去っていった。そうとは知らない乙女は、またいつものように、お料理するために、いそいそとしてやって来た。隠れている一番末の男は、見逃すまいと眼を皿のようにして、天女のような乙女の動作を見ていた。乙女は、かいがいしく立ち働きながら、芋を取り出して、真珠貝の殻であった刃物でその皮を剥いていた。今までじっと辛抱を重ねていた弟は、とうとう堪えきれないで、このときいきなり躍り出るが早いか、むずと柔らかい乙女の体を捕まえた。けれども絵から浮き出たような美しいその姿を見て、思わず「僕のお嫁さんになってはくださいませんか」と言った。けれど乙女は「それはできません。それは、私があなたの妹なのだからです」と優しく答えた。その時二人の兄が帰って来て、その美しい乙女の姿を見つけた。そして、「あの乙女は僕のお嫁さんだ」「いや、私のものだ」とめいめい勝手に言い出した。乙女は、その兄たちにも、実は妹であることを明かした。そして兄さん方のお世話をして、日々お料理させていただきたいものだと願った。
明くる日、兄たちはいつものように猟に、そしてボレヴイは、水を汲もうと、椰子実製の桶を携えて、泉のほとりに来た。乙女は、何気なしに泉の縁(ふち)に腰をかがめた。すると葉陰から突然躍り出た一人の男が、まるで荒鷲のように荒々しく、乙女の肩を掴んだと思うと、さっと小脇に抱え込んで、山奥の棲家へと走って行った。兄弟たちは、妹の帰りを待っていたが、いつまでたっても一向に帰って来ないので一番上の兄は、妹を見つけて来ると言いながら、出て行った。長らく探し歩いた後、漸く妹の所在を突き止めた。いまでは、もう攫って行った男のお嫁さんとなっていた。夫は、ボレヴイに「今日は珍しくもお兄さんのお見えだ。畑から何か取って来て、ご馳走でもしてあげてはどうだ」と言った。やがて畑から帰って来てみると驚いた。大事な兄さんは夫のために殺されて、その肉は、食べる様にちゃんと料理までしてあったのだ。けれどもお嫁さんは、驚きの叫びも立てず、また夫を責めようともしなかった。かえって静かに、「お食べなさい。けれど私には、肝臓を頂戴よ」と言った。お嫁さんは、その肝臓を椰子実製の瓶の中に入れて、そしてそれになみなみと水を注ぎ込んで置いた。次は二番目の兄の番であった。二番目の兄は、また、「今度は、私が兄さんと妹を探し出して来よう」と言いながら出て行った。そして長い旅の後、ボレヴイの棲家にやって来た。そこでまた同じようなことが起こった。乙女が畑に行っている留守の間に、夫はまたその兄を殺し、そして、その肉をお料理して置いた。やがて帰って来たお嫁さんは、これを見て前と同じように、「お食べなさい。けれど私には、肝臓を頂戴よ」と言った。お嫁さんはそれを食べないで、あの瓶を取り出して、一番上の兄さんのと一緒に水の中へつけて置いた。お祖母さんのほかにはたった一人になった一番末の弟は、「なぜ兄さん方は帰って来ないのでしょう。ちょっと見てきます」と言って、出て行った。そしてまた、上野二人の兄たちと同じ運命に落ちて、その肉は火で煮られた。ボレヴイはその肝臓だけを貰って、例の瓶を取り出して、三つ一緒に入れて置いた。
やがてお嫁さんは夫について、山の畑へ来た。そして、そこで二人は汗を流しながら、長い間働いた。ボレヴイは、道の真ん中にあって邪魔になる一本の木を伐り倒しなどして、一所懸命に夫の手助けをしながら、遠いところまでの開墾を、加勢していた。すると夫は、「さあ、もう家に帰る時刻だ。お前は食べ物を持って一足先に帰り、夕食の支度をしておくれ。私もすぐ後から帰るから」と言った。ボレヴイは、彫り上げた食べ物を詰めた袋を重そうに担ぎながら、急ぎ帰ってくると、大きな鍋いっぱいにお料理を作った。すると三人の兄さん方の肝臓を入れて置いたあの瓶の所へ来て、のぞき込むようにしてその水面を吹き始めた。不思議なことには、死んで、いないはずのあの兄たちの姿が、次第に現れて来たと思うと、もとのような元気な体となって、すっくと眼の前に立ち現れた。これを見たボレヴイは、大変喜んで、「兄さん方、さあ、お食べよ」と言いながら、お料理して置いた食べ物を、嬉しそうに皆の前に出した。
初めの間は目をきょろつかせていた兄さんたちお、涙もこぼさんばかりに喜んで、綺麗にそのご馳走を平らげてしまった。旨いご馳走をすっかり兄さん方にあげてしまったボレヴイは、まるで豚にでもやるようなまずい芋のお料理と、粗末なお料理とをこさえて、夫の夕食に備えて置いた。やがて一日の労働を終えた夫は、楽しそうに帰って来た。夫の声を戸口のとこに聞くと、ボレヴイは、飛ぶように走って行って、「お帰り。食事の支度もすっかり済んで、それはそれは、お待ちしてたのよ。さあ、おあがりなさい。」と言った。夫は、屑の寄せ集めみたいな粗末な食事を見て、冷ややかなこの仕打ちに怒るまいことか、お嫁さんに打ってかかった。夫の怒声を聞くと、今までじっと隠れていた兄さんたちは、踊りだしてさんざんな目に遭わせた末、とうとう殴り殺してしまった。無念骨髄にまで徹していた兄弟たちは、こうして殺してしまうと、八つ裂きにして家の中に放り棄てたまま、その家に火をつけて、出て行った。
三人兄弟は、見事仇を討って、兄思いの妹ボレヴイを連れて、帰って来た。そしてそこでは、兄妹仲睦まじい生活が、末永く続いたということです。
さあみなさん、焼けたら、山芋をコメリアさんの頭で割って、分けて食べましょう。というのは、話もこれで終わったからです。

解釈

この手の乙女はオーストラリアのミーメイなどが当てはまる。また料理を作って置くという話はアフリカにもある。この点で議論するならば、まず、遊女の生活が考えられるのである。つまり、この手の乙女とは、双子の原因であり、またそれから生まれた女であることが考えられる。しかし、この手の乙女の思いは正当なものと見受けられる。ほとんどの神話でこの手の乙女は単純に人間を助けようとしているからである。しかし、ある神話では、夫にひどい目に遭わされてしまうのであるが、ここでは兄たちの妹としてあらわれている。ここに、遊女が何を大切にしているかというヒントが現れている。すなわち、家族の愛は単純に有限絶対であるゆえに彼女たちにわかりやすく、また自然に正しい生き方の中でその生涯を迎えることができるのだと思われる。彼女たちはほとんどすべての神話の中で男性にとって魅力的な姿で描かれているのである。それゆえに嫉妬や欲望の種となり男たちにひどい目に遭わされるのであるが、彼女たちが男女の愛を理解しているとは到底思うことができないのである。それゆえに遊女であると考えられるのであるが、彼女たちは双子の問題を解消するためにこのように人々にとって良いことを、すなわち生命の糧を料理として与えたり、男の世話をしたりしている。今の所このような乙女の人間に害をなした話は見たことがない。逆を返すと、この乙女の存在が悪意の極限であり、悪意による罪がみちたゆえに、その倉が彼女たちによって開かれるという意味なのかもしれない。この点で、善意に際立って善い実りが与えられるという言葉に一致する。

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草の家と泥の家

昔々、ずっと以前には、人々は家に住まないで、洞窟や地面の穴の中などを、住処としているときがあった。というのは、雨露を凌ぎ、太陽を避けるあの重宝な家という者は、どうして作るのか、まだ知らなかった時があったからです。
ある時二人の男が、くだくだ強い長話の後、今の住居とは異なって、暗い土の中ではなく、明るい地上にあってしかも雨露を凌ぎ、太陽を除け、そして家族たちが安楽に暮らされるような住居を作ろうと相談を定めた。二人は、早速立ち上がって、めいめい自分の家の建築に取り掛かった。そして、自分の仕事が終わってしまうまでには、お互いに顔もあわさなかった。やがて一人の方がもう一人を訪れて、「おい、来ないかい。まあ、俺の家を一つ見ておくれ」と言った。一人は、友達に誘われるままに、その家の前へ来た。見ると、なるほど友達が鼻を高くするほどに、見かけはなかなか見事であった。材木の骨組みの上には、『レイ』という長い草を厚く織り渡し、それで屋根や壁を作り、太陽の光も雨露も通さないようにしてあった。これを見た友達は、心中ひそかに、自分のより良いと思って、一つ作った人の目の前で、貶してやろうと思った。それで、「これが、お前さんの住居なのだな。なるほどこれはお前さん、住居にはいいかもしれないが、私たちには、真っ平御免。この先の鋭い『レイ』草が、目にでも差し込んだら大変だ。おまけに目に刺さらなくても、皮膚に刺さったら、生傷の絶え間なく、腫物が出来るからな。まあ、それはよいとして、今度は俺の方にも来てもらいたい」と言って、横を向きながら、「さあ、私のを見せてあげよう」と言った。
それで、『レイ』で家を作った友達は、もう一人の友達に連れられて、その家を見に行った。それは、本当に見ただけでも、大層貧弱な住居だった。驚いたことには、地上に組み立てた名ばかりの細柱の間に、僅かばかりの泥を塗りつけた、ほんの泥の家に過ぎなかったのであった。それで、『レイ』で家を作った男は、驚いたような顔つきで、「雨が降ったらどうする」と尋ねた。するとその男は、「雨なんかこわくないよ」といかにも得意そうに言って、家族たちをその土の家に入らせた。これを聞いた他の男は、二人が家を建てる前に約束して置いたことを破られたのに気を悪くして、挨拶もろくにしないで、帰って行った。それで家に帰りつくと、どうかしてあの友達に約束を守らせて、雨凌ぎの家を作らせたいと、座り込んで一生懸命に考えていた。「熟慮は、百行の母」というが、まことにその通りで、こうして考えぬいた友達は、朝になるのを待って、恐ろしい魔法力のある湖精(こせい)が住んでいると言われている山を指して出発した。そして山に着くと、呪文を唱えてアポギの名を呼びながら、その水でこの世界に雨を降らせてくださいと、祈った。それが終わると、男は、急いで家に帰って、その中に座り、そしてお祈りの効験いかにと待っていた。
それから間もないことであった。太陽は、まだ大空に輝いていた。突然墨を流したかと思われるまでに、どす黒い雲が、太陽を包み隠してしまった。たちまち生暖かい風が、さっと吹きすぎた。すると篠つくような大雨が、どしどしと降り注いできたのです。家の中で待っていた人は、飛び立たんばかりに喜んだ。アポギに対する願望が、見事に聞き届けられたからであった。
土の中に住んでいる男は「雨なんか怖くない」と言ったが、それは愚かしい自慢だった。天地も押し流すような雨は、この泥の家もただ一呑みと、降り注いで来た。見る見るうちに、壁は壊れ始めた。さっきあれほどの広言を叩いた男は、この恐ろしい有様を見て、震えていた。それでもこの男は、まるで腰を抜かしたように、座ったまま動こうとはしなかった。子供たちは、あまりの恐ろしさに、お母さんの膝の下に取り付いて、ワイワイと泣き始めた。子供に泣きつかれたお嫁さんは、いたたまらないで、どこかに避難しようと、夫に勧めた。仕方なく不承不承に立ち上がった夫は、妻子を引き連れて家を出た。壁は、とっくの昔に流れ落ちてしまって、僅かに木材の骨組みだけしか、残っていなかった。子供たちは、雨中を泣き叫びながら、父親の後について行った。そして、男が駆け込んできたのは、あの『レイ』でこしらえた家だった。『レイ』で家を作った人は、篠つく雨にも濡れないで、平気で外の方を眺めていると、友達とその家族たちが、大粒の雨に叩かれながら、みすぼらしい姿で走ってくるのが見えた。それで心を鬼にして、戸口を閉め切り、あれほど傲慢なことを言った男がいったいどんなことをいうか聞いてやろうと、待っていた。すると友達の男は、敗れる様に激しく、戸を叩きだした。外からは、「おい開けて入れておくれ。えらい雨に遭って、子供が可哀想だ。」という叫び声が、地面に叩きつける雨の音に混ざって、聞こえて来た。待ち構えていた男は「いやだ。どうして入れることができるものか。鋭い『レイ』がお前さんらの眼に刺さって、盲目にでもなったら、この俺は、まことに相済まないじゃないか。あるいはお前さんお子供方の柔らかい皮膚に突き刺さって腫物にでもなったら、この俺はどういってお前さんに申し訳しよう」と答えた。自分で据え置いた罠に自分でかかったように、こういわれると、男も自分の広言のために、ぐうの音も出ないようになった。仕方なく男は、お嫁さんや子供たちは引き連れて、もと来た道を引き返して行った。大粒の雨は、ますます激しくなった。『レイ』で家を作った男のお嫁さんは、この有様を眺めて、大変可哀想に思った。それで、夫に助けてやって下さいと願った。心を鬼にした夫も、戸口を開けて、中に入るように呼び掛けた。土家を作った人は、恥ずかしい悲しい気持ちで、隅の方に小さくなっていた。自分の愚かしい傲慢な心を思い起こすと、まるで、頭から冷水を浴びせられたようであった。始めて真面目な気持ちに立ち返った男は、雨が止むと、一生懸命になって、友達のとおなじような家を作り始めた。このことがあってからずっと今日まで、泥というものは卑しめられて、住民の家はこの初めての家と同じく、みんな『レイ』で作られている。

解釈

泥の家とレイの家、レイという植物を使うのがこの地域の一般的な家だそうだ。この二人のやり取りはマラワとカットのそれ、またはト・カビナナとト・カルブブのやり取りに似ている。この点でも土民は2神の性質を具えているようである。ここではアポギという神格らしき者が登場している。これはアバイアと同じかどうか不明であるが、雨を降らすものらしい。しかし湖精と言っている点でアバイアと同一のように思う。

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命の償い

ワミラ人が、どうして西部の方の他の種族に比べて少ないかということを話す。
昔ある村に、二人の子供を持った女が住んでいた。ある時子供たちは家に残して、自分は穀物を取りに、畑へ行った。畑というのは、村からほど遠いところにあった。というのは村には沢山な豚がいて、付近に畑でもあったら、皆芋を食べてしまうからであった。で、一度畑に行ってくるのでも、大分長い間家を空けなければならなかった。
母親がいなくなると子供たちは、寂しくてならないので、摘み取った苺を的に、槍の投げっこをして遊んでいた。けれど兄の槍は、一度として命中しないのに、弟のは、投げるたびごとに、よく命中した。これを見て、心をイライラさせた兄は、横を振り向くなり、手にしていた槍で、いきなり弟を刺し殺してしまった。そして、その死体は棚の上にあげて、『ナウ、オロト』という大きな瓶を、その上からかぶせて置いた。けれども死骸と一緒に家にいるのがなんだか怖くて、海辺へとやって来た。畑で働いていたお母さんは、ぞんぶんに芋を彫り上げたので、帰りの支度のため木陰に座った。彫り上げた芋は、これから一つ一つ取り出して、よく切れる真珠貝の殻で、小さい根を取り、泥を落としたりなどするのであった。すると手が滑って、その貝殻で自分の手を切り込んだ。この意外なことに、女は大変驚いた。というのは内心、「私の地が流れるとは、さては、子供たちの身の上に何か起こったな」と思ったからであった。そこで、女は、用意もそこそこに、急いで帰って来た。
家に入り子供たちの名を呼んでみた。すると海辺にいた兄は、お母さんの声を聞きつけて帰って来た。お母さんは、「お前の弟はどこ」と尋ねた。子供は、「さあ、どこにいますでしょうね。さっきから一向に見ませんね」と答えた。お母さんは、一人で遊んでいるとでも思って、芋の皮をむき、夕食の支度をしていた。すると死体から滴る血がお母さんが座っているすぐそばの敷物の上に落ちて来た。お母さんは、異様なその音を聞きとがめて、その音のする方を見ると、そこには、生々しい血が気味悪く光っていた。驚いたお母さんは「これは、誰の血なのだろう」と言いながら立ち上がって、棚に伏せてある瓶を取った。するとそこには、自分の子供の死体が横たわっていた。この有様に驚いたお母さんは、あの兄の有様が怪しいと思い、すぐに子供を呼びよせて、聞きただした。子供はただならぬお母さんの顔色を見て、「お母さん。私たちは二人で、苺射りをしていました。弟のは、投げるたびごとにそれはよく当たるんだけれども、私のは、少しも当たらないんです。それで腹立たしさのあまり、とうとう槍で殺してしまいました。」と白状した。
恐ろしい目つきでこの有様を聞いていたお母さんは、立ち上がりさま気違いのようになって、子供を追い立てた。子供は、村から飛び出して、西の方へ逃げて行った。そのうちにマガヴァラ川の岸に着いた。これを横切って、またどんどん進んで行くと、マイという川の岸に来た。丁度この時、この川の近所では、ディマディマ人たちが酒盛をしようと、大賑わいの最中であった。若者は、その人たちの傍に進んで行って、立ち働いている人々の有様を、じっと見守っていた。それから口を開いて平気に「そこいらにある食料は、みんな料理するのだな。すべての料理が済んだら、少しばかりは藪の中に隠しておいて、残りは、みんなで食べることにしよう。私はちょっと河に浴してくるから、私が来るまでは待っているんだよ」と言った。ディマディマ人たちは、その言葉通りに、戻ってくるのを待っていた。河岸に戻って来た若者は、あちこちと探した末、一本の中空の竹筒を拾い上げた。そしてそれを割ると、たちどころに沢山の人が、目の前に立ち現れた。こうして一人の命を取った若者は、その償いとして、沢山な命を蘇らせたのであった。若者は、居並ぶ沢山な人間どもに、自分について来るように命じた。それで大勢の人間どもは、若者に引き連れられて、待っていたディマディマ人たちの所にやって来て、用意のご馳走を食べた。あれほど沢山用意していたといっても、何しろ多人数なので、充分にいきわたらないで、まだお腹が空いている者もあった。けれども若者の言いつけで隠しておいたご馳走があったので、ディマディマ人たちは、それで空腹を膨らませた。
今日なぜ西部地方には、こんなに沢山人がいるかという、一つの理由を話したが、もしこの若者が、生まれ故郷を出るとき、西部の方へは行かないで東の方へ行ってさえいたならば、ワミラ人は沢山で、西部人たちは、少なかったでしょう。

解釈

兄弟の因果関係において一番に思い浮かぶのはカインとアベルであるが、多くの兄弟の話についてすべて二人の関係が関連していると思う。しかし、その最も最初にあるのはひょっとしたら善意と悪意の対立であると考えられるのである。それはマラワとカットのような者で、この二者は第二の日にはすでに存在したのかもしれない。それはエロヒームから見た唯一なる方が、あたかもエロヒームの行為を邪魔だてしているかのような動きを魂が映したためだと思われる。この点で、魂は本来エロヒームから出た者として、唯一なる方と根本的に矛盾していると思われる。しかし、善意からするとそれは魂から出た同じものであるが、唯一なる神から出た者が善意と異なる場合にも善意はそれを悪意と錯覚するという問題が魂に検出される。これがいわゆるサーミリーの出現原因となっているようにも思われる。つまり、唯一なる神から出た者を見てそのようになりたいと、単に思いや心の範囲で考えたならば、それは単に善意に対する者としてのみ模倣や投影を引き起こし、まったく擬人と異なる者にしかならないと考えられる。そしておそらく悪意はその行動の善意にそぐわないところによって、魂においてその行為の遂行を妨げる様に働くのである。ここに魂の最も難解な問題が潜んでいる。すなわち神の働きに応えるものも魂に写った時にはその動きを捕えられその働きを阻害されてしまうのである。この問題を解決する働きを引き起こせるのはすなわち天と地のみである。

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手足のない男

ある村に、ワイズズという男がいた。この男は、手足がなかった。しかし、二人の兄弟たちが、毎日食事は運んでくれるし、いつまでも面倒は見てくれるので、何不自由はなかった。ある日兄弟たちは、畑に出て、家にはワイズズ一人しかいないことがあった。するとどこからともなく、「おお、人間の子たちよ。今は一歩たりとも家を離れるな。我が言に背く者は、容赦なく槍の血祭にあげてくれよう」という恐ろしい声が聞こえて来た。見ると総身は木の葉で飾り、ぜいたくな槍を持っているそれは身の毛もよだつほどに恐ろしいアイダガギオギオがいた。一目見るなり、ワイズズの魂は、ぼんやりとしてしまい、「命だけはお助けを」と言った。これを聞くとアイダガギオギオは「命が惜しいならば、私の言うことをよく聞け。さあ早く出て来て、椰子の若実をとって来て飲ませろ」と言いつけた。するとワイズズは、情けなさそうに「私には、手足というものがありません。どうして樹に登ることが出来ましょう」と答えた。アイダガギオギオは「まあ、心配せずと出てこい。私の手足をくれてやる」と言いつけに背くときには、どんな恐ろしい目に遭うかわからなかった。それでワイズズは、恐る恐る出て来て、差し出したアイダガギオギオの手足を身に着け、椰子樹に登り始めた。けれども、今まで木というものに登ったことのないワイズズは、この木に登ることが怖くて、寿命が縮まりそうだった。降りたくて仕方がなかったが、下には恐ろしいアイダガギオギオが待っているので、ワイズズは自棄になって、登って行った。恐ろしい思い出やっと頂上までたどり着いたので、沢山な椰子の実をもぎ取って、下へ投げおろし、そして身一つで降りて来た。それからアイダガギオギオは、手足を取り戻して、実の殻をむき始めた。そして割った実は、両手で高く顔の上にかざして、口の上に落ちて来る汁を、飲んでいた。こうしてそこに遭った若実の汁を、すべて飲んでしまうまでには、一度開いた口は閉じなかった。続けざまに飲み干してしまうと、今度はその殻の内部についている実を切り取って食べた。やがてお腹もいっぱいになったのでしょう。皮や殻を、ワイズズの家の戸口のところに投げ散らしたまま、さっさと帰って行ってしまった。
夕方になって、兄たちは帰って来た。そしてワイズズから、今日のことを一部始終聞いた。それで、兄たちはいろいろと相談して、ワイズズに「あいつがまたやって来たなら、言われるままに樹に登るのだ。しかし、決して忘れないように法螺貝を持って行って、木の頂上に着いたとき、力いっぱいそれを吹き鳴らしてくれ。俺たちが飛び出して行って、あいつをやっつけてしまうから。大丈夫、あいつは、お前をどうすることもできないよ。何しろ、その時は手と足とを、お前に化してあるんだからな」と言いつけた。
明くる日になると、案の定やって来た怪物は、昨日と同じように、ワイズズに言いつけた。そしてまた、自分の両手両足を貸し与えてやった。胸に一物あるワイズズは、木の頂上に着くと、そこに座り込んだまま、じっと待っていた。するとアイダガギオギオは、とうとう癇癪玉を破裂させて、「どうしてぐずぐずするんだ。早く若実を採って投げ落とさないか。喉を渇かせるな」と怒鳴った。ワイズズは平気で「いや、ここにもう少しこうしていたいんです。それほどお望みなら、取って投げ落としましょう。」と答えた。けれども別に若実を取って、投げ落とす気色もなく、下から持って上がってきた法螺貝を、力任せに吹き立てた。そして約束の通り、兄たちが出て来るかと待っていた。この音を聞いて、アイダガギオギオは驚いた。怪物には逃げる足もなく、敵と戦う手もなかったので、ワイズズに向かって、降りて来て手足を戻せと、続けざまに叫んだ。ワイズズは、さらには答えなかった。法螺貝の音を聞いた兄たちは、すぐに飛び出して来た。そして手足のないアイダガギオギオに躍りかかるが早いか、殺してその死骸を焼き捨てた。こうしてさすがの怪物も、手足を亡くしたまま、一塊の灰となってしまったのであった。もう大丈夫と思ったワイズズは、するすると木を降りて来た。アイダガギオギオは、もう死んでしまったので、その両手両足はワイズズのものとなった。今まで手足のなかったワイズズも、今はめでたく普通の人と同じようになったので、自分はもちろん、兄さんたちも大喜びであった。さあ、皆さん、焼け山芋をベイアさんの頭で割って、食べようではありませんか。お話はこれですっかり終わりました。

解釈

この話では、怪物アイダガギオギオの手足をワイズズという人間が手に入れる話であるが、アイダガギオギオとは何者であろうか。この怪物は手足を取り外して人間に着けることができるというらしい。この点で、ミャハのような自在な体を持つ者を想起するが、このような方法で、以前は人の体が治ったのだろうと考えられる。メラネシアもケルトのような、また北アメリカのモンダミンのような種族と近しいところがあるのかもしれない。この点で少し吟味ができるといいかもしれない。

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火食鳥の飛べぬ理由

一羽の火食鳥と、一羽のマンガルピス(非常に小さい鳥)とが、木の実を探しに出かけた。体の軽い、小さなマンガルピスは、細い枝にとまったが火食鳥はは、体が重いので太い枝にとまった。ところがその太い枝も折れてしまったので、彼らはもっと大きな枝を探さなければならなかった。あたりを見回していると、木の実の沢山成っている樹に太い枝があったので、彼らはその樹に移って、果実を食べ始めた。しかし、いつも火食鳥が先に立って、マンガルピスはそのあとからついて行くので、木の実はみな火食鳥の口に入って、マンガルピスの口にはちっとも入らなかった。やがて彼は、また別の樹に飛んで行った。そのとき、小さなマンガルピスは、「よし、今まではいつも火食鳥に出し抜かれたが、今度はそうはさせないぞ。こっちから、あべこべに鼻を明かしてくれよう」と考えた。
彼は細い枝にとまりながら、用を足して、木片でお尻を拭いた。
すると火食鳥が、「お前、何で、お尻を拭くのだ」と問いかけた。マンガルピスは、「翼を抜いて、それを使うのさ」と答えた。
そこで火食鳥も、座って用を足し始めた。その間に、マンガルピスが火食鳥に近寄って来て、その翼を抜いてやると火食鳥はそれでお尻を拭き始めた。
マンガルピスはそれを見澄まして「さあ一つ飛ぼうじゃないか」と言って自分がまず飛び立った。
火食鳥もその後に続こうとしたが、どうしても飛べなかった。それを尻目にかけながら、マンガルピスが、「私たちが一緒に飛んだ時に、お前さんはいつも果実を一人っで食べてしまったろう。だからお前さんをだまして飛べなくしてやったのだ。私が入用なのは木片で、翼じゃないからな」と言った。火食鳥は怒って、「私をだました報いで、お前は、悪戯小僧に石を投げつけられて殺されるか、弓の矢で退治されるのだぞ」と言った。マンガルピスは笑って、「いいよ、お前だって森に行きさえすれば、犬や人間に見つかって、すぐに殺されるだろうよ」と答えた。

解釈

マンガルピスという鳥と火食鳥の話であるが、この話もいわゆる悪意がどのような結果をもたらすかという所に、要点がありそうである。思いやりがないことによって悪意が生まれるということが、善意の言い分である。善意はそれ自体神に反発しうる者として存在している。悪意も悪意となった時点でそうである。そして、善意にも悪意にも属さない者として神の使いとなる者がいるのである。この点で、キリストは異質といってよい。すなわち、キリストにおいて始めて、善意に属する者の信仰が成立したのである。このことは、本来善意というような枠組みが存在しないということ、すなわち魂はあくまで創造の一部としてほとんど生物、物質にとって必要不可欠であるという点においてのみ我々に益しているということである。すなわち、唯一なる方が創造したのは天と地であり、そののちの創造物はすべてエロヒームによって創造されたということである。ただし、人間については唯一なる方も介入されている。また、イブリースは異質であるにもかかわらず、神と同調しようとするものである。そして、マステマはイブリースと同様ではあるが、自ら生み出した悪意によって善意を神に差し出す者である。これゆえにキリストは善意によって善意を神に差し出すので、これを神は試されたのである。そして、キリストは世界で義とされ、神とは異なるところへ移された。この話からは多くは引き出せないが、鳥の存在理由もこの善意と悪意の対立においてであると考えられる。

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子持木の実

マングンディー(ただ一人の者)は、ビアーク島のソーピングに生まれたものであるが、あるとき、そこからマヨコウォンディー(「嘘つき島」の一つ)に移って、庭を作って、その中に二、三本のアレング棕櫚を植えた。
マングンディーは、棕櫚の実からサゴウェール汁を取るのであった。ある朝のこと、知るの堪った竹筒を取り下ろすために、棕櫚の樹に登ってみると、いつの間にか盗まれていた。
それから五、六日の間続けざまに、竹筒を盗まれるので、彼はとうとう腹を立てて、不寝番をして、サゴウェール汁を盗む現場を取って押さえてやろうと決心した。彼の策略は成功した。夜の明け方に、明けの明星が、サゴウェール汁のいっぱい入った竹筒を盗みにやって来た。明けの明星が竹筒の方に、手を伸ばした途端に、マングンディーが物陰から飛び出して、取って押さえた。明けの明星は、身をもぎ放そうとして、ひどく抗ったが、何の役にも立たなかった。争っても無駄だと知ると、明けの明星は話し合いで、逃がしてもらおうと思った。しかし、明星がどんな条件を持ち出しても、マングンディーはどこまでも頑固にはねつけてばかりいた。明けの明星は、困ってしまって、最後に、「それでは、乙女の胸に投げつけると、たちまち身重になるという珍しい木の実をあげるから、許してください。」と言ったので、マングンディーもとうとう明けの明星を逃がしてやることにした。こうしてマングンディーは、マリスボンという珍しい木の実を手に入れることができた。
それ以来、マングンディーは、この不思議な果物を使う良い機会を待っていた。機会はまもなく到来した。
ある日、マングンディーが例の通り木の上にいると、二、三人の乙女たちが、向こうからやって来た。彼女たちが木下まで来たのを見澄まして、彼は一番美しい女の一人の胸に、マリスボンを投げつけた。木の実の力はまもなく現れた。その乙女は身重となって、一人の男の子を産んだ。その子はコノリと名付けられた。この子の父が誰であるか、それは何人にもわからなかった。母自身にとっても全く身に覚えがないことなので、まるで見当が付かなかった。ところが誰にもわからないということを、その子供が知っていた。彼は、マングンディーを自分の父だと名指したし、マングンディーも、彼を自分の息子と認めて、その母を妻に娶った。この結婚は、母が他の親類たちの不満を買った。彼らは寄ってたかって、新婚の二人をいじめつけたので、ついにマングンディーは、どこか他の場所に引き移ろうではないかと、妻に相談した。妻は大賛成であったが、何も乗り物がなかったので、旅をすることができないと言った。しかし、マングンディーにとっては、そんなことは問題ではなかった。砂の中に船の絵を描くと、それがたちまち本当の立派な船となった。夫婦の者はそれに乗り込み、マフォール島に向けて出帆した。島に着くと、妻は「どこにも棲家がないですね。どうしたらいいでしょう」と言った。マングンディーは、今度もまごつかないので、落ち着き払って、大地に4本のステッキを突き刺した。するとそれがすぐに、四軒の家に変わった。マングンディーは、マフォール島に暫く滞在して、いろいろなよい掟を定めたということであった。マフォールの住民が、今日もなお他のパプアの諸民族よりも、高い教養を持っているのは、彼のお陰であると言われている。
マングンディーは、いろんな掟を定めた後、メスラー(マフォールの北の都)に行った。それは自分で自分を火葬するためであった。マングンディーは、積み上げた薪に火を付けて、その中に飛び込んだ。だからみんな彼を死んだものとばかり思っていた。ところが、ある日コノリが、母に一人の凛々しい若者を指して、「あれがお父さんです。」と言った。実際マングンディーは、焼けた灰の中から若返ったのであった。伝説によると、マングンディーは、その後もまもなくマフォール島を去って、スップカリンガー(カリンガの国、すなわちコロマンデルの沿岸地)に旅立ったということであった。マフォールの人々は、今日でも、マングンディーの子のコノリが、いつかは帰って来て、豊かな国を打ち立てると信じている。その時には、死んだ者も蘇り、不死の生命が永遠に地上に栄えるというのである。

解釈

この話はまさにキリストの存在を示唆していると考えられる。しかし、時代的な問題でキリストより前か、それともキリスト教の影響を受けたためなのかが不明である。ただ、明けの明星がマングンディーに与えたマリスボンという果実がすなわち、キリストをマリヤから産んだのと同様の方法を提供している。もちろんキリスト以前の話であれば、まさにこの植物ゆえにキリストを遣わすことができたわけである。マングンディー自体が「ただ一人の者」というだけあり、不思議な存在である。彼が誰なのかが手掛かりとなりそうだ。そして、コノリはキリストなのだろうか。

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禁断の木の実

ニューギニアのパプア人は、コラノ・コノリという神を一番尊い神と信じている。コラノ・コノリは、大昔天から降りて来て、ニューギニアを作って、そこに留まっていた。彼は二本の木を植えて、大事に育てていたが、天界に去る時、男女二人の人間をこしらえて、「気を付けてこの木の番をしておくれ。どんなことがあっても、この木の実を食べてはならない」と厳しく言いつけて置いた。両人は、しょっちゅうその木の側にばかりはいられなかった。自分たちの生きるための心配もしなければならなかった。最寄りの森で木の実を集めるために、ときには神の木から離れねばならなかった。暫くの間は、男女が一緒に出掛けていたが、幾度も行く中に女の方が疲れるので、相談の結果男が一人で出掛けて、女は木の傍で留守番することになった。女は毎日ひとりで神の木の番をしていた。そのうちコラノ・コノリが、彼女の従順さを試して見ようと思い立った。それで彼は蛇のイクワーンを女の所に遣わせて、「あの女を私の命令に背かすように誘惑してみよ」と言いつけた。イクワーンは言いつけられた通り、一生懸命女を誘惑したが、駄目だった。蛇の最初の試みは見事失敗してしまった。この結果をもたらして、蛇はコラノ・コノリの許へ帰ってくると、神はさらにもう一度試みるように言いつけた。しかし第二の試みも第三の試みも失敗だった。女はどこまでも、神から禁じられた木の実を食べようとしなかった。しかし、蛇は蛇で、主の命令に従って、どこまでも誘惑の手を緩めなかった。そこでとうとうさすがの女も、蛇の這った罠に陥って、コラノ・コノリから食べることを禁じられていた、木の実を食べてしまった。天罰は覿面(てきめん)、彼女は自分が裸なのに気が付いた。そしてピサングの葉で前掛を作るために、出掛けて行った。その日の晩、森から帰った男は、女が葉の前掛をしているのを見て、少なからず驚いた。そしてその訳を聞くと、彼女がそんな大それた罪を犯したことに、ひどく腹を立てて、激しく彼女を責め立てた。そして、コラノ・コノリに対して、何と申し開きをしたものかと、途方に暮れた。女は始めの内は、黙っていたが、男が少し落ち着いてきた頃合いを見計らって、そろそろと誘惑を始めて、とうとうかれにも禁断の木の実を食べさせてしまった。こうして彼もまた自分の裸を気が付くようになった。
時が経つうちに、二人の間に、沢山の子供が生まれた。その中の二人は、マフォール島に行って、そこでマフォール族の、先祖となった。彼らの子供の中に、一人の乙女があった。その乙女は勤勉で善良で、両親の喜びの種となった。彼女はできるだけ世の中から離れていることを望んだ。それゆえに大変に結婚を嫌った。結婚を申し込むも者は幾人もいたが、いつも断られていた。断られた男の一人が絶望の余り、マリスボーンの実を、彼女の胸に投げつけた。で、まもなく彼女は身重になった。
彼女が身重になったことが知れ渡ると、日頃彼女を身持ちの正しい感心な娘とほめていた人々は、非常に怒りだして、彼女を罵るだけでなく、やがては、殺そうとさえし始めた。身に覚えのない彼女は、悲しみと驚きとに心乱れて、海辺に出て、コラノ・コノリにわが身の潔白を証した後で、泡立つ波に身を投げた。素晴らしく大きな貝がそれを見て、彼女を呑むために殻を開いたが、ただ髪の毛を捕えることしかできなかった。しかし、しかとその髪の毛を捕えて放さなかったので、彼女は到底身を振り放すわけにいかなかった。この危急な場面で、イクワーンが助けに来た。蛇は彼女の髪を解き放って、とある岩の所に連れて行った。そこで彼女は一部始終の物語を話して、「少しも身に覚えがないのにどうして身重になったのでしょう。まったく理由がわからないのです」と嘆き訴えた。しかし、彼女に分からぬことも、イクワーンにはちゃんとわかっていた。イクワーンのいうところによると、彼女が産もうとしているのは、誰であろう、まさしくコラノ・コノリの御子であった。これを聞くと、彼女はすっかり安心して、その岩の洞穴の中に起き伏しているうちに、やがて月満ちて男の子を産んだ。
けれども折角設けた可愛い子供とも、永くは一緒にいられなかった。イクワーンは、彼女に、もとはコラノ・コノリが住んでいたところに、子供を連れて行くように言いつけた。彼女はその通りにした。けれども以前自分を殺そうとした人々を恐れて、昼間はそこに留まる気が出なかった。それで昼の間は息子だけを置きっ放しにして、夜になるのを待っては、食物を運び、それからまたイクワーンの下に帰ってくるのであった。
彼女は、子供の教育のことなど、ほとんど構うことができなかった。しかし素晴らしく知恵の早い子で、少し大きくなると、立派に話をしたり、歌ったりするようになり、彼のいるあたりは、その美しい歌に響き渡るのであった。
それを聞いた人々の中には、どうした理由かと好奇心に駆られて、彼を見にくる者が沢山あった。子供は、自分からコラノ・コノリの息子と名乗り、父なる神の命令に従って、善良で信心深くあるようにと真面目に人々を諭したので、人々は皆目を見張って驚いた。子供は人々に向かって、「もしお前たちが、自分の言葉を守るならば、自分はいつまでもお前たちと一緒に留まって、幸福にしてやるであろう。しかし、もし今までの様に悪いことを続けるならば、その罰としてお前たちの皮膚を黒くし、髪を縮らすだけでなく、自分はすぐにお前たちを見捨てるだろう。」と言った。
しかし、パプアの人たちは彼の戒めを顧みなかった。かくて彼は姿を消してしまった。パプアの人たちはそうした不従順の報いとして、黒い皮膚と縮れた髪とを持つ身となった。息子の去ったのに心を痛めた母親は、一塊の岩に変わってしまった。

※この物語が『旧約聖書』創世記および『新約聖書』から出たことは、誰にでもすぐわかるでしょう。パプア人は宣教師からアダムとイブやキリストの物語を聞いて、こんな物語としたのである。自然民族が聖書の教えをどう受け取るかの一例としてとても興味がある。

解釈

この話が聖書を宣教されてからできた話であると筆者が書いている。この点で、まず一番気になるのは蛇のイクワーン、それから、最初の男女から生まれた乙女である。この乙女がアセナトに似ている点が気になる。しかし、聖書にある通りの物語と同一の話を彼らの歴史的な経験の内で知っているならば、この乙女はアダムとイブの子ということになる。
そうなると、すでにアセナトと同一の存在がすでにアダムの時代に生まれていたということになるのではないだろうか。この点で、韓国の神話にあるアリランの歌の熊が人間になった話が思い浮かぶのである。すなわちその動物が神を求めた結果として、人間となり、アダムの子孫となったかもしれない。そしてイクワーンが本当にエデンでイブをだました者であったならば、蛇はメラネシアに追放され、さらに、ラーやケツアルコアトルもこの周辺に現れたのではないだろうか。ここで、コラノ・コノリがサタンである可能性も否めない点に注意が必要である。すなわち、唯一なる神から遣わされた、悪魔がコラノ・コノリである可能性がある。ということである。この点で善意と悪意という対立は神によって操作されていたということがあり、それゆえに人間は試されている。この対立はおそらく人と人の間を離れるため、そして、力を得るため、そして、人が集まって悪さを行わないようにするため、である。その中で神を信じることで偉大な力を得られるというのは言うまでもない。とにかく、このメラネシアの神話群で、一つ、それは第二の日の根本に根差す問題と関係している。一つ、第五の日、タニームやベヘマー、それからオフ、ロメス、ビドゥガット、等の動物のうち海に属する者と密接な関係を持っている。一つ、善意と悪意の始まりを含んでいる。一つ、それは兄弟の問題についてもふれている。一つ、明けの明星についての手がかりに富んでいる。一つ、第二の日と第三の日の関係についても現れるところがある。一つ、半神半人などのあいまいな存在に近い者が関係している。このあたりが差し当たって目立っている。聖書とも関連する非常に多くのヒントが見受けられるので比較的重要と考えられる。シベリアと同等のレベルで吟味していきたいと思う。

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